詩仙堂  丈山寺(しせんどう じょうざんじ)
       Shisendo Jyozanji Temple
                   天空仙人の神社仏閣めぐり
詩仙堂 Official Page
詩仙堂  丈山寺 詩仙堂 丈山寺
「詩仙堂 丈山寺」
Shisendo Jyozanji Temple
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詩仙堂 丈山寺 詩仙堂 丈山寺
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詩仙堂 丈山寺 詩仙堂 丈山寺
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詩仙堂 丈山寺 詩仙堂 丈山寺
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京都 詩仙堂 境内図
「境内図」

詩仙堂 丈山寺(しせんどう じょうざんじ)

Shisendo Jyozanji Temple

京都市左京区一乗寺門口町27

27,Ichijyoji-Monguchi-Cho,Sakyo-ku,Kyoto

TEL 075-781-2954


史跡 詩仙堂

 現在詩仙堂とよばれているのは、正しくは凹凸(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。 凹凸とは、でこぼこした土地に建てた住居とい う意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描 かせ、図上にそれ等各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた″詩仙の間″を中心と しているところから呼ばれる。

 丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永十八年、五十九才 の時であった。これは、我国の三十六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見 も求め、左右十八人、それぞれの組合せに意味をもたせた。 蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元等七対は羅山の改定した所である。

 建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時 をそのままに偲ぶことが出来る。

 丈山はここに”凹凸十境”を見たてた。 入口に立つ

(1)小有洞(しょうゆうどう)の門、参道をのぼりつめた所に立つ

(2)老梅関(ろうばいかん)の門、 建物の中に入り

(3)詩仙堂、読書室である

(4)至楽巣(しらくそう)猟芸巣(りょうげいそう)、堂上の楼

(5)嘯月楼(しょうげつろう)、至楽巣の脇の井戸

(6)膏肓泉(こうこうせん)、侍童の間

(7)躍淵軒(やくえんけん)、庭に下り、 蒙昧(もうまい)を洗い去る滝という意の

(8)洗蒙瀑(せんもうばく)、その滝が流れ込む池

(9)流葉はく(りゅうようはく)、 下の庭に百花を配したという

(10)百花塢(ひゃっかのう)、その他丈山考案の園水を利用して音響を発し、 鹿猪の庭園を荒すのを防ぎ、又、丈山自身も閑寂の中にこの帝を愛し老隠の慰さめとしたと いう ″僧都(そうず)″(添水、一般には鹿おどしともいう) 等は今も残されている。

 詩仙堂の四囲の眺めを見たてた″凹凸十二景〃は画家に絵を描かせ丈山自ら詩を 作ったものである。丈山の遺愛の品である〃詩仙堂六物”、多数の硯、詩集である 「覆醤集(ふくしょうしゅう)」等多数の品々が残されている。これらは毎年五月二十三日の丈山忌後、 二十五日から数日間、「遺宝展」として一般公開している。

 現在は曹洞宗大本山、永平寺の末寺である。

 詩仙堂の四季にはそれぞれ趣きがあるが、特に五月下旬の ″さつき″、 十一月下旬の紅葉等がすばらしい。


石川丈山

石川丈山は、天正十一年(1583年)三河国(現在の愛知県安城市)に生まれた。 石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も十六才で家康公に仕え、近侍となつた。 松平正綱、本多忠勝等はその親族である。三十三才の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名 を立てたが、この役を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩(せいか)に 朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野侯に十数年仕えた。

後母を亡した丈山は五十四才の時京に帰り相国寺畔に住居した。 寛永十八年(1641年)五十九才で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余年を清貧の中 に、聖賢の教えを自分の勤めと寝食を忘れてこれを楽しんだ。

丈山は隷書、漢詩の大家であり、又煎茶(文人茶)は日本の開祖である。 寛文十二年(1672年)五月二十三日、従容として、九十才の天寿を終った。

詩仙堂 丈山寺 しおりより


詩仙堂

正しくは、六六山(ろくろくざん)詩仙堂丈山寺(じょうざんじ)と号する曹洞宗の寺院 である。

もとは、江戸時代の文人・石川丈山が、寛永十八年(1641)に穏棲(せい)のために 建立した山荘「凹凸(おうとつか)」(でこぼ こした土地に建てた住居の意味)で、昭和四十一年(1966)に寺に改められた。

詩仙堂の名は、狩野探幽(かのうたんゆう)らの筆による三十六人の中国の詩人の肖像と 、丈山自らが書いた各詩人の詩が四方の壁に掲げられた「詩仙の間」に由来する。

丈山は、三河国(みかわのくに)(現在の愛知県)安城に生まれ、徳川家康に仕えていた が、禄を辞して京都に住み、詩作に励むとともに林羅山ら一流の文化人と交わり、茶道に おいては煎茶の奥義を極めた。晩年はこの地で悠々自適の生活を行い、寛文十二年(16 72)に九十歳で天寿を全(まっと)うした。

回遊式の庭園は白砂と皐月(さつき)の刈り込みが美しく藤、花菖蒲(はなしょうぶ)、 杜若(かきつばた)、紫陽花(あじさい)、萩(はぎ)、山茶花(さざんか)など、四季 それぞれに美しい姿が楽しめる。東には滝が配置され、鹿や猪が庭園を荒らすのを防ぐた め、また一説には山荘の静寂を慰めるために丈山が考案したといわれる僧都(そうず)( 添水、鹿(しし)おどし)の音が、静かな庭園に風情を添えている。

毎年五月二十三日には、丈山忌が営まれる。

京都市 案内板より


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