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「鳥居」「拝殿」
toriiHaiden
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「帳」「提灯」
TobariChochin
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品川神社 大黒天 品川神社 ぶじかえる
「大黒天」「交通旅行安全守護

ぶじかえる」

DaikokutenBujikaeru
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品川神社 鳥居の龍 品川神社 鳥居の龍
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品川神社 笑門来福 絵馬 品川神社 千客万来 絵馬
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品川神社 無事かえる絵馬
「無事かえる絵馬」
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品川神社(しながわ じんじゃ)

Shinagawa Jinja Shrine

東京都品川区北品川3−7−15

3-7-15,Kita-Shinagawa,Shinagawa-Ku,Tokyo

京浜急行新馬場駅から徒歩約3分


ご利益海上交通安全、祈願成就


品川神社御由緒

今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187)に、 源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃当スを当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。

やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷様)」を、 さらに室町時代中期の文明10年(1478)に、太田道灌公が、「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。

慶長5年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、 その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。

また、寛永14年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮座と定められ、 「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、 元禄7年(1694)・嘉永3年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、 徳川将軍家の庇護を受けました。

時代は明治に移り、同元年(1868)11月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、 当社を含んだ都内の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。

大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、 昭和39年(1964)氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。

境内 案内板より


御祭神

天比理乃当ス(太玉命の后神、祈願の神)、素盞鳴尊(風水害除、疫病除、歌謡の神)、宇賀之売命(農業、商業、産業の繁栄の神)、大国主、恵比須神(福徳円満、清廉の神)

御社号

古くは品川の鎭守として、「品川大明神」と称す、寛永十四年徳川三代將軍家光の命により、南面の地に東海寺創建以後、同寺の鎭守と定められ「稲荷社」と称す。明治元年旧来の名称に復し「品川神杜」と改称す。又地元では通称「北の天王」(荏原神社を南の天王)と称す。

旧社格

明治元年十一月「准勅祭神社」、明治五年五月「東京府下郷社」に定められる。 准勅祭神社とは、江戸が東京と改称され、明治天皇は人心の安寧と国の栄えを祈るため、明治元年十一月、芝神明杜、日枝神社、根津神社、神田神社、亀戸天神社、白山 神社、品川神社、富岡八幡宮、赤坂氷川神社、王子神社の十社を准勅祭神社と定め、勅使 御参向させ祈願された。


御由緒

品川神社の由来は、後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、 安房国の洲崎明神である、天比理乃当スを勧請して、品川大明神と称した。 後醍醐天皇の御世(1319年)に、当国の守護職二階堂出羽入道道蘊、(貞藤と云い北條高時の臣、 鎌倉に二階堂と云う地名があるそこに住していた)宇賀之売命を勧請し社殿等を再建し社地を吉端岡と名付けた。 永享四年正清入道幸純社殿等を再建す。 (幸純は道蘊の子孫なること南品川海晏寺に詳かなり)、文明十年六月太田道灌、素蓋鳴尊を勧請す。 慶長五年徳川家康関ケ原の戦に出陣の折神前にて祈願し太々神楽を奏し、後神輿、假面等奉納す。 寛永十四年將軍家光の命により東海寺鎭守と定められてから幕府の御修復所となり、 元縁七年將軍綱吉社殿等再建、嘉永四年將軍家慶社殿再建した。 明治元年准勅祭神社に定められた。大正十三年京浜国道開通にともない境内地の一部用地となる。 昭和七年九月新束京八名勝選定の折第三位となる。 現社殿は昭和三十九年十月杜務所と共に島本正一氏他氏子の協力により再建され、 北品川、東五反田の一部、南品川の一部の鎭守として敬われ親しまれている。


品川神社太々神楽 (東京都無形文化財)

当杜の諸祭典に神前にて行ふ独特の神楽で、元亀年間頃(1570年) から行はれていると云はれ、徳川家康関ヶ原の戦勝祈願の折にも行はれたと社伝に記されている。 現在は氏子青年により保存会が出来、歳旦祭、四月十五日例祭、六月例大祭、新嘗祭の祭典の中に行っている。

江戸時代酒井抱一の書いた「屠龍工随筆」に、「総て十二神楽と号して色々の面をかぶりて立舞ふ太鼓の拍子は鎌倉拍子、 品川拍子とて二流あると云ふ、その品川拍子と云ふは今の品川天王の社より発りたりとかや、古きよりあつたる社と見えたり」とある。 神楽の拍子は、笛、メ太鼓、太鼓で行い、品川打鳴らし、恵牟布、品川拍子、鎌倉柏子、早品川、三つ拍子、 良武志があり十二座の神楽とは、四方拝、翁、岩戸、花童子、天扇、八剣、 幸替、青白幣帛、稲荷、矢天狐、八雲、猿田の舞である。面、装束は徳川幕府よりの奉納品が多く今も使用している


例大祭(品川天王祭)

今は六月七日に近い日曜日を中心に行っている。 文明十年六月太田道灌が素盞鳴尊を勧請してから行はれ、江戸時代東海道五十三次の第一の宿駅となってから盛んとなる。 三代將軍家光公が寄附された神輿を、勝海舟が「葵の神輿」と名付け、今は二代目の四八○貫の大神輿が有名である。 品川神社の神輿には、家康公の奉納した通称「天下一なめの面」を屋根につけ、〆太鼓と笛の品川拍子でかつぐのか特長である。 面を取付けるようになったのは、ある年のこと凶作がつゞき疫病がはやり人々が苦しんいる時、 神のお告あり「此の面を神輿に付け町々を廻れば苫しみから救う」と、以来神輿にお面を付け渡御し家々の幸福を祈願するようになった。 又品川拍子とは、家光公が神輿を奉納された当時から、 品川神社太々神楽の拍子と江戸囃子の拍子から独特の品川拍子を作ったと云はれ、 明治四十年代の家元島田長太郎が納めた額に記されている。


一粒万倍の泉(阿那稲荷杜下社)

万物、天地水の忠により生成発展する。一粒の種より万倍の稲穂となる。 それ人の努力も必要である。末社阿那稲荷社上社は天の恵の霊、下社は地の忠の霊と霊水あり、 商売をなす人銭、印鑑に霊水をそゝぐがよし、又持帰りて店の四角入口にそゝぎ、清明なる心にて商売すぺし、 そゝぎし銭の一部は門前商店街で使用するとよし。御縁日、毎月初の一粒万倍日、初の午の日。

品川神社 パンフレットより


文治3年(1187)、源頼朝が海上交通の安全と、祈願成就の守護神として、安房国洲崎明神である天比理乃当スを勧請し、 品川大明神と称した。

後醍醐天皇の御世に、北條高時の臣二階堂貞藤(道蘊)が、産業の守護神として、宇賀之売命を勧請し社地を吉端岡と名付けた。

文明10年6月太田道灌が、風水害、疫病、歌謡の守護神として、素盞雄尊を勧請し6月の天王祭が始まる。 東海道品川宿の鎮守である。

東京十社めぐり パンフレットより


大黒天(だいこくてん)【有福】

品川神社(しながわじんじゃ)

文治三年(1187)、源頼朝公が安房国の洲崎明神(天比理乃当ス)を当地にお祀りしたのを創始とする。 後に鎌倉時代末に二階堂道蘊公が宇賀之売命を、室町時代中頃に太田道灌公が素盞鳴尊を祀る。

また、徳川家康公は関ヶ原合戦出陣の際に当社にて戦勝をご祈願され、以降、徳川歴代将軍により庇護を受ける。

東海七福神 おめぐり図 パンフレットより


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