京都 御寺 泉涌寺(せんにゅうじ)       Mitera Sennyuji Temple   天空仙人の神社仏閣めぐり

泉涌寺 Official Page
京都 御寺 泉涌寺 仏殿 写真 京都 御寺 泉涌寺 仏殿 写真
「仏殿」「仏殿」
ButsudenButsuden
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「舎利殿」「大門」
SharidenDaimon
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京都 御寺 泉涌寺 月輪陵 写真 京都 御寺 泉涌寺 写真
「月輪陵」
Tsukinowa-Ryo
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庭園


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楊貴妃観音堂


京都 御寺 泉涌寺 楊貴妃観音堂 写真 京都 御寺 泉涌寺 写真
「楊貴妃観音堂」「絵馬」
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京都 御寺 泉涌寺(せんにゅうじ)

Mitera Sennyuji Temple

京都府京都市東山区泉涌寺山内町27

27,Sennyuji-Yamanouchi-Cho,Higashi-Yama-Ku,Kyoto


泉涌寺

東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。 ひろく「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は。天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。 法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが、 順徳天皇の御代(建保6年・1218)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師しゅんじょう(しゅんじょう)が 時の宋の法式を取り入れてこの地に大伽藍を営み、 寺地の一角より清水が湧き出た事により寺号を泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れる事なく涌き続けている。

大師は若くして仏門に入り、大きな志をもって中国の宋に渡り深く仏法の奥義を究められた。 帰国後は泉涌寺に於いて戒律の復興を計り当寺を律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として、大いに隆盛させた。 時の皇室からも深く帰依せられ、仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、 歴代天皇の山陵がこの地に営まれるようになり、爾来、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。 当寺が「みてら」と呼称される所以である。

境内には仏殿・舎利殿をはじめ、天智天皇以降の歴代皇族の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、 春の新緑、秋の紅葉には一段とその美しい姿を映えさせている。

霊明殿

現在の霊明殿は明治17年(1884)に明治天皇により再建されたもので、入母屋造り桧皮葺き、外観は宸殿風である。 内部は内陣・中陣・外陣にわかれており、特に内陣は五室の宮殿となっている。 天智天皇以来の歴代皇族の御尊牌が奉祀されており、皇室との御縁も深く、内部の荘厳具は明治天皇以降の御皇族から御贈進されたものである。

◎仏殿・舎利殿

仏殿は寛文8年(1668)に徳川家綱により再建されたもので、重層入母屋造り本瓦茸、唐様建築の代表作である。 内部の鏡天井には狩野探幽筆の龍図が描かれ、裏堂の壁には同じく探幽筆の白衣観音像が見られる。

舎利殿はもと御所にあった御殿を重層に改装したもので、内陣の宝塔内に仏舎利を安置する。 天井には狩野山雪筆の龍を描き、広く「鳴龍」として知られている。

◎三尊仏

仏殿内陣には伝運慶作の釈迦・弥陀・弥勒の三尊仏が安置されている。 三世にわたって人類の安泰と幸福を守り、永遠の繁栄を願う人々の信仰を集めている。

◎楊貴妃観音像

楊貴妃は唐の玄宗皇帝の妃として、又絶世の美女として知られる。玄宗は亡き妃を偲んで、等身坐像にかたどった聖観音菩薩像を彫らせた。 この像は建長7年(1255)湛海律師によって当寺に請来された。 その像容の美しさと尊さは人々の心を捉えて離さない。

◎御座所

現在の御座所は、霊明殿再建時に明治天皇により御所内の御里御殿が移築されたものである。 御殿西の御車寄に続く一棟は六室に分かれ南東には玉座があり、東北の御室はかつて皇后御産の間であった。 玉座の間は一段と高くなっており、特徴ある違い棚が見られる。 御室の中央には光格天皇御遺品の桑製の御机が置かれている。

◎海会堂

海会堂は御所の御黒戸を移築したもので、歴代天皇及び皇族の御念持仏が祀られている。 御仏体の御姿は様々であるが、各時代の代表的仏師が心を込めて彫像しただけあって、いずれも素晴らしい御像である。

御寺 泉涌寺 パンフレットより


泉涌寺

真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室とのかかわりが深く、「御寺(みてら)」として親しまれている。

寺伝によれば、平安時代に弘法大師によって営まれた草庵を起こりとし、 法輪寺(後に仙遊寺と改称)と名付けられた後、建保六年(1218)には宋(中国)から帰朝した月輪 大師(がちりんだいし)・しゅうじょう(しゅんじょう)に寄進され、 大伽藍(がらん)が整えられた。 その際、境内に泉が涌き出たことにちなんで泉涌寺と改められた。 仁治三年(1242)の四条天皇をはじめ、歴代の多くの天皇の葬儀が行われ、 寺内に御陵が営まれており、皇室の香華院(こうげいん)(菩提所)として厚い崇敬を受けてきた。

広い境内には、運慶の作と伝えられる釈迦仏、阿弥陀仏、弥勒仏の三世仏を安置する仏殿(重要文化財)のほか、 釈尊の仏牙(ぶつげ・歯)を祀る舎利殿、開山堂、御所の建物を移築した御座所、霊明殿(れいめいでん)など数多くの伽藍が建ち並んでいる。

寺宝として月輪大師筆の「泉涌寺勧縁疏(かんえんそ)」(国宝)、楊貴妃観音堂に安置される聖観音像(重要文化財)など、多数の貴重な文化財を所蔵する。

また、謡曲『舎利』の舞台としても有名である。

山内の塔頭(たっちゅう)には七福神が祀られており、毎年成人の日に行われる七福神巡りは多くの参拝客でにぎわう。

京都市 駒札より


楊貴妃観音堂

唐の玄宗(げんそう)皇帝の妃、楊太真は、楊貴妃の名で知られる絶世の美女であり、二人の愛情の深さは白楽天の「長恨歌」にたたえられている。 しかし、その美貌のためにかえって、玄宗の失政と安禄山の乱を呼び、唐の至徳元年(756)、妃はその乱によって命を落とした。 安禄山が討たれた後、皇帝玄宗は亡き妃の面影を偲ぶため、香木によってその等身坐像にかたどった聖観音像を造ったと伝えれる。  

建長7年(1255)に中国に渡った湛海(たんかい)は、その像を持帰り、泉涌寺に安置したという。 以来百年目ごとに開扉されてきた秘仏であったが、昭和31年(1956)から厨子の扉は参拝者のため開かれることになった。  

仏体は寄木造(よせぎづくり)で、手に極楽の花、宝相華を持ち、宝冠は宝相華唐草(ほうそうげからくさ)の透彫、 その下に観音の冠を重ねている。 観音の慈悲と楊貴妃の美貌が渾然一体となった仏像で、口もとや目もとの曲線は、得も言われぬ尊容を漂わせている。

境内 京都市 駒札より


泉涌寺と謡曲「舎利」

泉涌寺は泉山と号する真言宗泉涌寺派の大本山ですが、 古くから皇室の香華院として知られ四条天皇の仁治3年、ここに月輪陵が設けられたのを初めとし、 後水尾天皇から仁孝天皇に至るまでの天皇・皇后・親王等25陵5灰塚9御墓の後月輪陵が営まれています。 本尊は釈迦・弥陀・弥勒の三尊ですが、舎利殿には堂内に韋駄天立像があり、謡曲「舎利」では、足疾鬼が、舎利殿に飛び上がり、 舎利を奪って虚空に飛び去ったところ、この寺を守護する韋駄天が、これを追いつめ、仏舎利を取りかえすという話になっています。

「太平記」に載せられている説話にもとづいたものですが、 泉涌寺の仏舎利が天下に二つとない霊宝として尊崇をあつめてきたことは古書にもしるされているので、これらを素材につくられたのでしょう。 

謡曲史跡保存会 案内板より


洛陽三十三観音霊場 第20番 泉涌寺

大門を入って左手奥の堂内に安置されているのが、楊貴妃観音像(重文)である。 湛海律師が建長7年(1255)羅漢像等と共に宋より請来された像である。 玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像と言われ、その像容の美しさと尊さはは現在も人々の心を捉えて離さない。

楊貴妃観音菩薩(楊貴妃観音堂)

ももたびも あゆみをはこぶ せんにゅうじ

などやほとけも まんぞくにます


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