佐渡 大膳神社(だいぜん じんじゃ)    Daizen Jinja Shrine    18.MAY.2008   天空仙人の佐渡古社紀行


佐渡 大膳神社 参道 佐渡 大膳神社 鳥居
「参道」「鳥居」
SandoTorii
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佐渡 大膳神社 拝殿 佐渡 大膳神社 拝殿内部
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佐渡 大膳神社 能舞台 佐渡 大膳神社 能舞台
「能舞台」「能舞台」
Nou-ButaiNou-Butai
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佐渡 大膳神社(だいぜん じんじゃ)

Daizen Jinja Shrine

新潟県佐渡市竹田

Takeda,Sado-shi,Niigata

両津港から、車で約30分。

最寄りのバス停「竹田橋」(南線)から、徒歩約10分。


大膳神社縁起

左殿  日野資朝卿

正殿  御食津(みつけ)大神

右殿  大膳坊賢栄

正殿御食津大神は農業食饌の祖神、豊穣の守護神で、古来当地のうぶすな神として尊崇敬慕されて いる。その勧請創始については諸説があり、一説には式内社当国九社の一つとも言われるがなお詳 かではない。

正中の変の折、日野資朝卿当国に配流され、一子阿新丸(くまわかまる)は父子対面を求めて遥々 都から下向したにもかかわらず、遂に許されぬまま父刑死の無念を霽らすべく、城主本間山城守の 館に潜入し、その弟三郎を斬って本懐を果たした。此の間大膳坊賢栄は、真の敵は鎌倉なりと阿新 丸を諭したが、その孝心の巳み難きに感動してこれを扶け、更に、迫り来る討手窮追の危機の中に 阿新丸を守護し、無事虎口を脱して帰京せしめた。

山城守は激怒して大膳坊を処刑したが、その後大いに梅い畏れて日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀 してその霊を崇め奉ったと伝えられている。

(「大膳神社縁起碑」より)


【縁起補記】

当国式内九社の一つに「御食神社」というのがあり、その所在について永年の間議論のあったとこ ろですが、近年(昭和61年)、式内社研究の専門家グループの調査によって、当神社が「式内・ 御食神社」であろうと確認されました。御食神社がどうして大膳神社に社号を変えたのかについて は、当神社の別当であった大膳坊賢栄の合祀が深く関わっていると考えられますが、なお考察を要 するところです。

※「式内社」…平安時代の「延喜式」神名帳に名が記されている神社

【能舞台】

当神社の能舞台は、佐渡の宝生流大夫家である潟上本間家が、佐渡に能楽を広め定着させるための 重要な拠点とした、いわゆる「四所の御能所」の一つとして由緒を持つ舞台です。最初の建立は詳 かでばありませんが、記録として現存する能番組の最も古いものは文化年間のものであり、その他 の資料などを総合的に考えますと、少なくともそれよリは数十年以上遡るものと思われます。

現在の建物は弘化三年(1846)に再建されたものですが、鏡板は絵具の剥落と板の損耗のため に、昭和54年原形のまま取り外して保存し、新たに板を調えて旧を模写したものです。日輪を配 した意図については諸々の解釈が考えられますが、「影向(ようごう)」という信仰的意昧による ものではなかろうかと考えられます。

昭和56年10月、皇太子・同妃両殿下(現天皇・皇后両陛下)の行啓を賜わり、当神社の縁起に ゆかりの深い能「檀風」を薪能でご覧いただきました。また、平成4年6月には秋篠宮・同妃両殿 下のお成りをいただき、能「船弁慶」を同じ<薪能でご覧いただきました。

大膳神社 パンフレットより


中部北陸自然歩道

大膳神社

祭神は農業食饌の祖神である御食津神。左右に日野資朝卿・山伏大膳坊を合祀する。勧請創始年代 は不明であるが、社名については社伝では正中の変で佐渡に流罪・処刑された日野資朝の一子阿新 丸が父の仇を討ち逃れる時、これを扶けて無事京都へ送り届けた山伏大膳坊が檀風城主本間山城入 道の激怒にふれ処刑された。その後山城入道は大いに悔い畏れて日野資朝と大膳坊を当社に合祀し てその霊を崇め奉ったためという。しかしこの社は延喜式内社当国九社の一つ「御食神社」でなか ったかとする説もある。

古代、官人の給食を司る役所である「大膳の司所」の祭神が御食津神であることから、後世大膳神 社となったものか。

慶長検地帳に「御食宮免」という200苅余の神田が当社分として記載されている。

環境庁・新潟県 案内板より


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