吉見 岩室観音(いわむろ かんのん)龍性院      Iwamuro Kannon Temple   18.Nov.2012   天空仙人の神社仏閣めぐり


岩室観音
「岩室観音」

岩室観音
「岩室観音 彫刻」

岩室観音 四国八十八ヶ所めぐり
「岩室観音 四国八十八ヶ所めぐり」

岩室観音 観音堂 写真 岩室観音 観音堂 写真
「観音堂」「観音堂」
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岩室観音 観音堂 写真 岩室観音 観音堂 写真
「観音堂」「観音堂」
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岩室観音 胎内めぐり 写真 岩室観音 胎内めぐり 写真
「胎内めぐり」「胎内めぐり」
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岩室観音 八十八ヶ所めぐり 写真 岩室観音 八十八ヶ所めぐり 写真
「八十八ヶ所めぐり」「八十八ヶ所めぐり」
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岩室観音 八十八ヶ所めぐり 写真 岩室観音 八十八ヶ所めぐり 写真
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岩室観音(いわむろ かんのん)龍性院

Iwamuro Kannon Temple

埼玉県比企郡吉見町北吉見

Kita-Yoshimi,Yoshimi-Machi,Hiki-Gun,Saitama


岩室観音について

一、縁起

武州比企郡岩室山の正観世音は、その昔、嵯峨天皇の御宇・弘法大師が諸国を遊歴し この地に至り、岩窟を選び三味に入り、 観世音の尊像を彫刻しこの岩窟に納め、岩によりて殿をかまえ岩室山と号し多くの人を血縁せしめました。

天正の終わり頃、太閤秀吉関東に出馬したとき、石田三成の士卆によって松山城が灰燼となり、 その餘焔大殿にかかり党宇残らず消失しても、尊像だけが不思議にも岩窟内に無事おわしました。

その後、龍性院中興第三世・尭音法師が師命を受けて遠近を駆け巡って檀信徒の助力を募つて、 寛文年中に現在のお堂を造営したと伝えられています。

二、お堂

この建物、懸造りと称して、有名な京都清水寺の観音堂と同様で、稀に見る貴重な建物です。

三、ご縁日は毎月十八日

災難除け、交通安全、商売繁昌、安産等あらたかな霊験は、広く知られています。

岩室山 龍性院


四国八十八札所

こちら 一番から五十一番

むこう 五十二番から八十八番

四国八十八ケ所の霊場巡拝は、遍路の打ち振る鈴の音と、南無大師遍照金剛の称号と御詠歌の 歌声でにぎわっています。

  病気が治った

  災難を免れた

  家庭が平和になった

一度遍路すればまた行きたくなるとは、経験者の偽らざる言葉です。 弘法大師が霊場を開き衛門三郎がこれを整えてから、七、八百年から千年たつ現在この信仰はますます盛んであります。 然し乍ら四国まで出掛けるのは大変なことなのでここに四国霊場と同じ八十八ケ寺の如来、菩薩、明王、天がまつられています。

心を込めて参拝ください。

岩室山 龍性院


岩室観音と石仏

岩をうがって観音像をまつったところから岩室観音という。龍性院の境外仏堂である。

この観音のはじまりは、弘仁年中(810〜824)といわれているが、たしかな記録は残っていない。

松山城主が代々信仰し護持していたが、天正18年(1590)松山城の攻防戦の際に兵火にあって 当時のお堂は焼失してしまった。

現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(1661〜1673)に、龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の 助力を得て再建したものである。 お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては、めずしいものである。

また、ここにある石仏は、四国八十八ヶ所弘法大師巡錫の霊地に建てられた寺々の 本尊を模したもので、八十八体の仏像がまつってある。

また、この石仏をおがめば、いながらにして四国八十八ヶ所を巡拝したのと同じ功徳があるとされている。

吉見町・埼玉県 案内板より


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