総本山 園城寺 三井寺(みいでら)
     西国三十三所 第十四番札所
       Miidera Temple 
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三井寺 Official Page
三井寺 仁王門 三井寺 金堂
「仁王門」「金堂」
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三井寺 国宝 金堂 三井寺 釈迦堂
「国宝 金堂」「釈迦堂」
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三井寺 鐘楼 三井の晩鐘
「鐘楼」「三井の晩鐘」
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三井寺 三重塔 三重塔
「三重塔」「三重塔」
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三井寺 潅頂堂 三井寺 唐院参道
「潅頂堂」「唐院参道」
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三井寺 毘沙門堂 三井寺 弁慶の引き摺り鐘
「毘沙門堂」「弁慶の引き摺り鐘」
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左甚五郎作の龍の彫刻(蟇股) 迦陵頻迦の彫刻(手挟)
「左甚五郎作の龍の彫刻(蟇股)」「迦陵頻迦の彫刻(手挟)」
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三井寺 閼伽井 三井寺 童地蔵
「閼伽井」「童地蔵」
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総本山園城寺 三井寺(みいでら)

Miidera Temple

滋賀県大津市園城寺町246

246,Onjo-ji-cho,Otsu-shi,Shiga


三井寺(園城寺)

園城寺(三井寺)は天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の一山に数えられています。

その歴史をひもとくと、天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友与多王が「田 園城邑」を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜り、「長等山園城寺 」と称したのにはじまります。

俗に三井寺と呼ばれるのは、当時天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井( みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師が当寺の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたこ とに由来しています。

長い歴史の上で当寺は再三の兵火にあい焼失しましたが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在 も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。


智証大師

開祖智証大師円珍和尚は、弘仁五年(814)讃岐国に生まれました。母は弘法大師の姪に当たり ます。比叡山での12年籠山修行大師は中、大師一生の信仰を決定づける黄不動尊を感得されまし た。

これこそ今日も秘仏として伝わる国宝・黄不動尊(金色不動尊明王)画像です。

貞観元年(859)園城寺初代長吏となり、貞観10年(868)には、第五代の天台座主として 二十四年の長きにわたり、日本仏教の発展の為に尽くされました。

寛平三年(891)十月二十九日、七十八歳をもって入寂され、後に醍醐天皇より「智証」の大師 号が贈られました。


【伝説】弁慶の引き摺り鐘

奈良時代の作とされるこの梵鐘は、むかし俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。 その後、山門(延暦寺) との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると、 ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺へ帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。 その時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。


【伝説】左甚五郎の龍

三井寺の名称が生まれた霊泉閼伽井屋の正面には、有名な左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻がある。

むかしこの龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたために、困った甚五郎が自ら龍の眼玉に五寸釘を打ち 込み静めたと伝えられている。

今もこの龍は、静かに閼伽井屋の正面で三井寺を見守っています。

三井寺しおり より


西国三十三所 第十四番札所 三井寺 御詠歌

いで入るや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖


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