石峰寺(せきほうじ)
     Sekihoji Temple 
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石峰寺 石段 石峰寺 中国風竜宮造り総門
「石段」「中国風竜宮造り総門」
IshidanSoumon
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石峰寺 本堂 石峰寺 卍匂欄
「本堂」「卍匂欄」
HondouManji-Kohran
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石峰寺 本堂 石峰寺 写真
「本堂」
Hondou
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「石條
龍の背の鱗を表す」
Sekijo
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石仏群


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石峰寺(せきほうじ)

Sekihoji Temple

京都市伏見区深草石峰寺山町26

26,Fukakusa-sekihoji-yamacho,Fushimi-ku,Kyoto


石峰寺

百丈山と号し、黄檗宗に属する。

宝永年間(1704〜1711)、万福寺の千呆和尚の創建と伝えられ、 当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、 現在の本堂は、昭和60年に再建されたものである。

本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。

これは、江戸時代の画家伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)が当寺に庵を結び、 当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。

また、門前より少し西に行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶碗子の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。

京都市 案内板より


百丈山五百羅漢 石峰寺

百丈山石峰寺は、宝永年間(1704〜1711)黄檗宗第六世賜紫千呆(せんがい)禅師により建立された禅道場である。

以後寛政年間に画家伊藤若冲が当寺に草庵を結び、禅境を好み仏世の霊境を化度利益する事を願い、 七代密山和尚の協賛を得て安永の半ばより天明初年まで前後十年余をかけて裏山に五百羅漢を造ったのである。

羅漢とは釈迦の説法を聞き世人より供養される者を言うのであるが、 釈迦入滅後その教えを広めた数多の賢者を賛嘆する意味で宗・元時代より五百羅漢の作成が見られる。

我国に於ても室町時代以後この五百羅漢の作成が見られ、その表現は、虚飾のない表情の中に豊かな人間性と美を秘めている。 当寺の五百羅漢は若冲が磊落な筆法にて下絵を描き、 石工に掘らせたもので釈迦誕生より涅槃に至るものを中心とし諸菩薩、羅漢を一山に安置したものである。 永年の風雨を得て丸み、苔寂びその風化に伴う表情や姿態に一段と趣を深めている。

明治以後荒廃していた羅漢山は龍潭和尚の篤志により、草を払い径を開き個々の石仏の趣きをみるによく整理されたものである。


春風に五百羅漢のとはれ皃(かほ)

                 鈴鹿野風呂

われもまた落葉のうえに寝ころびて

羅漢の群に入りぬぺきかな

                 吉井 勇


伊藤若冲

(いとうじゃくちゅう 1716年〜1800年)

江戸時代中期の画家。光琳派より宋・元の古画を学び、後写生を基礎として専ら動植物を描き特に鶏画家として有名である。

京都の青物問屋に生まれた彼は、仏教とくに禅への並々ならぬ傾倒を示し、 三十歳代半ばより相国寺の大典禅師に参禅、若冲居士の号をえてから、ひたすら禁欲憎のような生活を守り生涯独身を貫き、子を残さなかった。

晩年隠棲者として石峰寺の古庵に住み、米一斗に一画を報い、斗米翁として、寛政十二年九月十日八十五歳の生涯を閉じた。

当山本堂南に若冲の墓と書家貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文の筆塚が立っている。

「パンフレットより」


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