京都 妙満寺(みょうまんじ)      Myomanji Temple  天空仙人の神社仏閣めぐり

妙満寺 Official Page

庭園

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正伝寺蓮華寺源光庵宝泉院

京都 妙満寺 名園 枯山水 雪の庭
「名園 枯山水 雪の庭」

京都 妙満寺 名園 枯山水 雪の庭
「名園 枯山水 雪の庭」

京都 妙満寺 名園 枯山水 雪の庭 京都 妙満寺
「名園 枯山水 雪の庭」
YUKI NO NIWA
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京都 妙満寺 京都 妙満寺 手水鉢
「手水鉢」
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京都 妙満寺 京都 妙満寺
「山門」「本堂」
SanmonHondo
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京都 妙満寺 仏舎利大塔
京都 妙満寺 安珍 清姫伝説の鐘
「仏舎利大塔」「安珍 清姫伝説の鐘」
Busshari-DaitouKane
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京都 妙満寺 京都 妙満寺

京都 妙満寺(みょうまんじ)

Myomanji Temple

京都府京都市左京区岩倉幡枝町91

91,Iwakura-Hataeda-Cho,Sakyo-Ku,Kyoto


顕本法華宗

総本山 妙満寺

妙満寺由緒沿革

妙満寺を創建した日什大正師は、もと天台宗で名を玄妙といい、比叡山三千の学頭にまで なった人であるが、故郷の会津で日蓮聖人の教えに触れ、67才という高齢にもかかわら ず宗を改め日蓮門下に入られた。

日什上人は、日蓮聖人の遺志である帝都弘通を想い御歳68にして都に上がり、時の帝・ 後円融天皇に上奏。二位僧都の位と「洛中弘法の倫旨」を賜り、康応元年(1389)六 条坊門室町に妙塔山妙満寺を建立し、根本道場とした。

妙満寺はその後、応仁の乱など幾度かの兵火に遭い、そのつど洛中に寺域を移し興隆して きたが、天正11年(1583)秀吉の時代に寺町二条に移され400年にわたり「寺町 二条の妙満寺」と親しまれてきた。

その後、都市化が進み日毎に増す喧噪と環境悪化を避けるため、昭和43年に「昭和の大 遷堂」を挙行。現在の岩倉の地に移り今日に至る。

日什上人は稀代の碩学でありながら一巻の書物をも残さなかった。 これは「その書物のために仏の教えを誤解されてはならない」と配慮されたためであり、 釈迦牟尼仏より日蓮聖人に受け継がれた正しい教えを、自分の意見をはさまず素直に受け 持つように戒めた。これを「経巻相承・直受法水」といい、妙満寺の宗是である。


「雪・月・花」三名園の一

雪の庭

妙満寺本坊にある「雪の庭」は、俳諧の祖と仰がれる松永貞徳(1571〜1653)の 造営であり、貞徳は清水・北野(一説には祇園)にも同時に庭園を造ったとされる。

清水を「月の庭」・北野を「花の庭」(現存せず)と称し、それぞれが成就院という坊に あったことから成就院「雪・月・花」の三名園と並び称されていた。 比叡の峰を借景にした冠雪の眺望が最も美しく、これが「雪の庭」と称される由縁である。 当山の岩倉遷堂の際に成就院より本坊に移築した。


霊鐘

安珍・清姫伝説の鐘

「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺の霊話は長唄、歌舞伎等の芸能に取り入 れられている。その物語に縁あるこの鐘は数奇な運命で当山に伝わった。 正平14年(1359)3月11日、道成寺では安珍・清姫の伝説以来、永く失われてい た鐘を再鋳し、鐘供養を盛大に営んだ。その席に一人の白拍子が現われ、呪力で鐘を落下 させると、蛇身に変わり日高川へと姿を消した。その後、近隣に災厄が続いたため、清姫 のたたりと恐れた寺は鐘を竹林に埋めたが、後にその詰を聞いた「秀吉根来攻め」の大将 ・仙石権兵衛が掘り起こし、京都に運び込み妙満寺に納めた。 時の妙満寺貫首日殷大僧正の法華経による供養で怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となった。  当山では、例年の春の大法要において鐘供養を営み安珍・清姫の霊を慰めており、道成 寺を演じる芸能人はこの鐘に芸道精進を祈る。


インドブッダガヤ型

仏舎利大塔

インド・ブッダガヤ大塔は、釈迦牟尼仏が覚りを開いた聖地にアショーカ王が妃元前20 0年頃建てた供養塔で、仏教最高の聖跡である。「釈迦牟尼仏の精神に帰れ」という妙満 寺の教えの象徴としてこの大塔をイメージし、昭和48年に全国檀信徒の写経浄財によっ て建立されたのが、当山の仏舎利大塔である。ブッダガヤ大塔を型どったものとしては日 本初の建築である。一階正面には釈迦牟尼仏坐像を安置し、最上階には古来より当山に伝 わる仏舎利が奉安されている。


加藤清正公肖像画

当山所蔵の名画として、土佐派中興・土佐光則による「加藤清正公肖像」がある。清正公 は旗指物に南無妙法蓮華経のお題目を書くほどの熱心な信者であり「南無妙法達華経 従 四位清正行年五十才」と自署した大手判(丈26cm)を当山に奉納している。


松永貞徳肖像画

当山には松永貞徳の唯一の肖像画を所蔵している。雪の庭の作者である貞徳は連歌から俳 諧を文芸として独立させ、後の松尾芭蕉にも大きな影響を与えた。寛永6年(1629) 当山を会場に俳諧大興行が行われ、初めて俳諧が公式の場に登場することとなった。 いわば当山は俳句発祥の地である。

妙満寺 しおり より


雪の庭 由来

俳諧(俳句)の祖といわれる松永貞徳(1571〜1653)の造営した庭 貞徳は寛永 6年(1629)11月25日、当妙満寺を会場に正式俳諧興行として「雪の会」を催し た

これにより俳諧は連歌から独立した文芸として認められるところとなり 後に松尾芭蕉や 与謝蕪村などを輩出して確立し今日に至っている 妙満寺は俳諧(俳句)発祥の地といえ る

妙満寺の塔頭・成就院の時の住職日如上人は貞徳の門人であり その縁からこの「雪の庭 」を造営した 清水寺本坊の「月の庭」 北野(一説に祇園)の「花の庭」(現存しない )とともに いずれも成就院にあったことから成就院にあったことから成就院「雪・月・ 花の三名園」と並び称されていた

昭和43年妙満寺が中京区の寺町二条からこの岩倉の地に遷堂した際 石組をそのままに 移築し本坊の庭として復興した

その名の通り 冠雪の比叡山を借景とした眺望が最も美しい


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