穴太寺(あなおじ)
      Anaoji Temple
             27.Oct.2012 
                 天空仙人の神社仏閣めぐり
穴太寺 Official Page
穴太寺
「穴太寺」

穴太寺 仁王門 写真 穴太寺 本堂(観音堂) 写真
「仁王門」「本堂(観音堂)」
NioumonKannondo
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穴太寺 本堂(観音堂)写真 穴太寺 本堂 寺号額 写真
「本堂(観音堂)」「寺号額」
KannondoJigougaku
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穴太寺 多宝塔 写真 穴太寺 万体地蔵 写真
「多宝塔」「万体地蔵」
TahotoMantaijizou
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穴太寺 懸仏 観音菩薩像 写真 穴太寺 懸仏 観音菩薩像 写真
「懸仏 観音菩薩像」「懸仏 観音菩薩像」
KannonzouKannonzou
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穴太寺 金剛力士像 写真 穴太寺 金剛力士像 写真
「金剛力士像」「金剛力士像」
Kongo-RikishizouKongo-Rikishizou
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穴太寺(あなおじ)

Anaoji Temple

京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46

46,Higashi-Tsuji,Anao,Sogabe-Cho,Kameoka-Shi,Kyoto


穴太寺縁起 丹波国 西国二十一番札所

□御本尊 薬師如来と聖観世音菩薩

穴太寺(あなおうじ)は、山号を菩提山と号し、天台宗に属します。古くは、「穴穂寺」 「穴生寺」「菩提寺」などとも呼ばれていました。創建は、寺伝によると慶雲2年 (705)、文武天皇の勅願により大伴古麿によって、薬師如来を御本尊に安置し建立 されたと伝えます。

●その後、平安時代になると、当地曽我部郷の郡司、宇治宮成によって聖観世音菩薩を 当寺に奉迎することになりました。これには仏師の身代わりになり、弓矢を受け、そ の命を救った「身代わり観音」の霊験譚『穴太寺観音縁起』が伝えられています。 二のお話は『今昔物語』や『扶桑略記』などに語られ、早くから世に当寺が知られるよ うになりました、

●現在の本堂には正面須弥壇にある三つの御厨子の内、真中に御本尊薬師如来、左側に 札所御本尊聖観世音菩薩立像、右側に御前立札所本尊聖観世音菩薩立像の三尊を安置し ています。この観世音菩薩は、緑起にいう平安時代の菩薩さまではないですが、胸の傷 とともに同じお姿に模刻されています。しかしながら、薬師如来と観世音菩薩は秘仏で あり、観世音菩薩は三十三年毎の御開帳、薬師如来に至っては完全な秘仏として御開帳 した記録はありません。普段は御前立の観世音菩薩が、こ参詣の皆様をお迎えしておら れます。

●当寺の観世音菩薩は大悲代受苦の御誓願「身代わり」の霊験のほかにも、女性をお守 りくださる女人安産のお寺として、古来より安産御祈祷の腹帯をお授けする霊場でもあ ります。鎌倉時代には鎌倉幕府の祈願所となり、諸国を遊行し踊り念仏をひろめた、時 宗の祖である一遍上人は、観世音のお導きによって当寺に滞在し、この地に集まった、 多くの人々と結縁されました。南北朝時代以降は比叡山西塔院末で、室町幕府から所領 や執行職を安堵されていました。戦国時代になると、戦火や明智光秀による亀山城築城 の用材として、当寺の堂宇を壊し流用したとも伝えられ荒廃していたようです。江戸時 代に入って再興の勧進が実り、諸堂を復興し今日に至ります。

●現在でも観音信仰はもとより、正月に本堂前に組まれた、櫓から福札(牛玉宝印)をま いて授ける福給会(ふくたばえ)や八月九日のお盆に口丹波の新仏さんを鬼灯(ほおずき) でお迎えするお精霊さん迎えなど在郷の人々の信心を集める寺院です。

□釈迦如来大涅槃像(鎌倉時代)

お釈迦さまがインドクシナガラの地で生涯を閉じ、涅槃に入られるお姿です。日本では、 二月十五日にその遺徳を追慕し涅槃像を供養しますが、大体が画像で、当寺本堂右脇壇 におられるような等身大の彫像は全国的にみても大変珍しいものです。蓮華座を枕にし て横たわるお姿はまことに円満で、悟りの境地に入られた表情をよくあらわしています。

●この尊像は明治二十九年(1896)に本堂屋根裏よりお出ましになりました。当時 の住職と孫娘の病気平癒のため、日々参詣をしていた信者の霊夢によってこの尊像を探 し当て、堂内に祀ると孫娘の病が快癒したと伝わっています。

それ以来、諸病悉除の釈迦大涅槃像として、自分の病の個所と同じ尊像の部分を撫で、 自分の体をさすり返すとお釈迦さまの、こ利益に与かれるとして、癒しを求める参詣者 に全身を撫でられ光沢を放っておられます。

ありがたや諸病悉除の釈迦如来

           ねがへ穴太の寺に詣でて

●岡部伊都子先生著の『みほとけの対話』には「穴太寺釈迦涅槃像を拝して心ゆくまで 」と題して信仰の手に撫でられさすられて横たわる黒びかりのお釈迦さま自分の病気の 部分を「どうぞ治してください」と祈りながらさすると治してくださるという。からだ は悪い所となるばかり、それにまして心病める者・・・いったいどこをなでさするべき かと、とまどう思いだ、なかなかよき像身に触れさせてもらえない悲しみがある。この み像は人目をしのぷ罪意識もなく、心ゆくまで触れさせてもらいたいおおらかな涅槃像 である。

この尊像は岡部先生のいわれる通り何人といえども尊像の前に立って静かな寝像に触れ させて貰う時は万の悩み事や難症の病気も消滅していただけるように思われる偉大な慈 悲あふれる涅槃像です。

□穴太寺庭園(府指定名勝)

書院の南面にあたる庭園は左側後方に見える多宝塔を借景として取り入れ、これに合わ せて築山を設け、石組みを配して庭園美を一層引き立てています。園池の背後には、段 状に二列の石組みを巧みに配して、横長の石を水平に置くことで安定感をだすなど、亀 岡市内の他の庭園では見られない熟練した京都の庭師の手によって作庭されたものかと 思われます。

●築山の東部山すそより水が流れ出て、その前に岩山があり水分石となっています。築 山の西部の池岸には舟付があって、その沖合いに向けて出舟の形式がとってあります。 サツキの郡植は見事であり、センダン・クスノキ・ゴヨウ松の古木が散在して長閑な景 色が広がります。書院から眺めると多宝塔が水面に姿を投影して、この庭園ならではの 趣がみてとれる丹波の名園です。

『穴太寺観音縁起』

宝徳二年(1450)に重修された『穴太寺観音縁起』(府指定文化財)によると、貪欲で あった宇治宮成が、信心の篤い妻の勧めで、京より仏師感世を招き、金色の観世音菩薩 を造立します。その礼に愛馬を差し出す宮成ですが、馬を惜しく思ったあまり、都へ 帰る途中に待ち伏せをし、弓矢で仏師を射殺し愛馬を取り返します。ところが家に帰 った宮成を迎えたのは、先ほど自分が放った矢が刺さり、目から赤い涙を落として、駒 より赤血を流しておられた観世音菩薩でした。これは、仏師の身代わりになるととも に、宮成が罪人となることをも防いだ、観世音菩薩の霊験であり、全ての苦しみを受 けてくださった、観世音菩薩の大慈大悲の御心を説いた縁起です。その後、観世音菩 薩が宮成の夢枕にお立ちになり、弓矢の傷が痛むため、穴太寺の薬師如来に癒して もらいたいと願い、当寺にお堂を建て、穴太観音として奉安されたと伝えられています。

本堂(観音堂府指定文化財)

享保十三年(1728)、前身の堂が焼失して後、七年後の享保二〇年(1735)に再 建されました。桁行、梁行ともに五間の御堂で入母屋造、本瓦葺の屋根に三間向拝が つきます。多くの巡礼者が訪れる霊場の本堂の常として広い向拝下の土間と吹き放 ちの外陣が特徴です。内部は中央三間分の格天井に花鳥図を描き、内々陣には禅宗様 の須弥壇を設け華麗な彫刻と彩色を施した宮殿を据えて、本尊の薬師如来と聖観世音 菩薩の三尊を安置しています。左右の脇壇には左脇に不動明王立像、右脇には平安期 の阿弥陀如来立像と釈迦如来大涅槃像を安置しています。

多宝塔(府指定文化財)・三十三所観音堂・納札所

文化元年(1804)再建。三間の多宝塔で柱は全て円柱になり、切石積の基壇上に東面 して建ちます。軒は下重に二軒繁垂木、上重には二軒扇垂木として変化を持たせ、東西 南北に四神の彫刻をはめています。内部は四天柱が立ち来迎壁を設けて、禅宗様の須 弥壇に釈迦如来と多宝如来の二仏を安置します。亀岡市では唯一の木造塔として貴重な 存在です。多宝塔の右側には三十三所観音堂と納札所が続きます。三十三所観音堂には 西国札所のお砂が納められており、このお堂をお参りすることで、全ての西国観音霊 場をお参りしたことと同じだけの功徳があるといわれています。 納札所には多くの参拝者の納札が打ち付けられています。

仁王門・鐘楼・鎮守堂(府登録文化財)

仁王門は南から真っ直ぐに街道が突き当たる場所に建つ三間二戸の八脚門。入母屋造、 本瓦葺で、17世紀中期頃の建立と思われますが、柱には改造痕跡が多くみられ、狩 野永納が延宝四年(1676)に描いた『穴太寺観音縁起絵巻』にある楼門の古材を 利用しての改築ではないかとの指摘があります。仁王門をくぐり一左側には小さな鳥 居と小社殿があります。このお社は当寺の鎮守一社で菅原道真公を祭神とする天満宮 であり、寺紋は道真公に因み梅鉢紋です。小さいながらも本格的な一間社流造で18 世紀初期に属すると思われます。その左は稲荷明神です。鐘楼は方一間の四足、入母 屋造に桟瓦葺です。宝暦九年(1759)の建立です。

念仏堂(府登録文化財)・地蔵堂・宇治宮成墓所

本堂の東側(右側)、納経所横に位置する念仏堂は寄棟造で、棟札によると宝永二年( 1705)に建立されました。この御堂は常念仏堂ともいい、当山中興二代禅海はこ の地で念仏を広めたと伝えられ、禅海によって建立された念仏道場です。本尊には 阿弥陀如来坐像を安置していますが、鎌倉期と思われる頭部と胸部から下は作風が 一致せず、古い時代の仏像に相当な手を加え制作された、仏像です。堂内には亀岡市 内の諸所の古い位牌が多数まつられ、極楽往生を願う人々の信仰の篤さが窺えます。 念仏堂の右脇には地蔵池と地蔵堂が建ち、その横には宇治宮成の墓所といわれ、室 町期の様式を伝える館形の石造物が並びます。

円応院(方丈及び庫裏並びに表門府登録文化財)

本堂の西側(左側)の一画に位置する方丈及び庫裏は円応院と呼ばれ、南面に府指定名 勝の庭園と西面に護摩堂に続く露地の庭をあわせ持つ書院造の建物です。棟札による と中興初代行鹿が延宝五年(1677)に造営し、本堂とは渡り廊下で繋がっています。 玄関車寄から南の方丈部分は、方丈建築として丹波地方では屈指の質の良さと古さを 持つといわれています。主座敷は数奇屋風味を加味し南の庭園の風光とあいまって好 ましい雰囲気を作り出しています。なお、表門は宝永二年(1705)建立の薬医門です。

御縁日

1月1日   修正会

1月3日   福絵会(大般若経転読・護摩供法要)

2月3日   節分会星祭

春秋彼岸会

8月9日   精霊会(お精霊さん遡え)

8月23日  孟蘭盆大施餓鬼会(地蔵盆)

大晦日    除夜の鐘

穴太寺 しおりより


第二十一番 天台宗 菩提山 穴太寺

村上天皇の時代、曽我部郷に宇治宮成という者がいた。その妻は信仰心があつく京都か ら仏師感世を招いて聖観音像を彫刻させ、そのお礼に夫の葦毛の馬を与えて帰したが、 邪見な夫は馬が惜しくなり待ち伏せして射殺し帰宅したところ、聖観音像の肌に白羽の 矢が刺さり、鮮血が流れているのに驚き、罪を悔い、発心して堂宇を建立してその観音 像を安置した。秘仏であるが今尚胸に矢疵があるという。

御本尊 聖観世音菩薩

【御詠歌】 

かかるよに うまれあうみの あなうやと おもわでたのめ とこえひとこえ


西国二十一番 穴太寺

宗派 天台宗

本尊 聖観音菩薩 

穴太寺(あなおじ)は、菩提山と号し西国三十三観音霊場の二十一番礼所として広く知 られています。古くは「穴穂寺」「穴生寺」「菩提寺」などとも呼ばれていました。

宝徳2年(1450)にかかれた「穴太寺観音縁起」によると、文武天皇の慶雲年中( 704〜708)大伴古麻呂大臣が薬師如来を本尊して開創したと伝えています。当時 早くから世に知られるようになったのは、聖観音像にあつわる「身代わり観音」の霊験 譚によります。

「本朝法華験記」(1040〜1044)「扶桑略記」(平安時代後期)「今昔物語」 (平安時代後期)」などによれば応和2年(962)丹波桑田郡の宇治宮成が京都から 仏師感世を招き金色の観音像を造立したと伝えます。また「穴太寺観音縁起」は観音像 の造立を寛弘7年(1010)のことと伝えています。

鎌倉時代後期には西国三十三観音霊場の一つとして上げられ(公衡公記)一遍上人も当 寺に参詣し逗留しました。(一遍証ぬん絵伝)また室町時代には山門西塔院の末寺にな り室町将軍家足利氏の庇護を受けました。天正年間(1573〜1592)に兵火にか かり伽藍は荒廃しました。その後の再興は17世紀中興初代行廣が住職に就いてからです。

「寺社御改書上帳」、享保13年(1728)本堂(観音堂)を焼失しましたが、「穴 太寺拝領行運記」享保16年(1731)には本堂の再建が始まり同20年(1735) に棟上げが行なわれ、元文2年(1737)全てが完成しました。

当寺の涅槃像は全国にも6例しかない貴重な仏像で、市の文化財に指定されています。 檜材を用いた寄木造りで鎌倉時代の作です。この像は撫で仏として自分の体の悪いところ と同じ場所を撫でてお願いすると、霊験があるといわれています。

当寺の庭園は京都府の名勝指定を受け、本堂多宝塔は京都府の文化財の指定を受けています。

鎮守堂・仁王門・鐘楼・念仏堂・方丈及び庫裡方丈表門は京都府の登録文化財として、また 亀岡市の指定を受けています。

境内 案内板より


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