京都 光悦寺(こうえつじ) Koetsuji Temple 14.SEP.2002 天空仙人の神社仏閣めぐり
「参道」 | 「参道」 |
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Sando | Sando |
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「大虚庵」 | 「光悦垣」 |
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Taikyoan | Koetsu-Gaki |
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「大虚庵」 | 「本阿弥庵」 |
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Taikyoan | Hon-Ami-An |
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「灯籠と手水鉢」 | 「庭園」 |
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「庭園」 | 「光悦垣」 |
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Koetsuji Temple
京都市北区鷹峯光悦町29
29,Takagamine-Koetsu-Cho,Kita-Ku,Kyoto
TEL:075-491-1399
本阿弥光悦翁旧跡 光悦寺縁起 光悦寺の沿革 京の北、鷹峰三山(鷹ケ峰、鷲ケ峰、天ケ峰)を見渡す景勝の地 −−光悦寺。 この辺の一帯を鷹ケ峰光悦町と称び、元和元年(1615)徳川家康公が本阿弥光悦翁に野屋敷として与えた土地である。 光悦翁はそこに一族縁者をはじめ、種々の工芸にたずさわる多くの職人と共に住居を構え、光悦翁を中心とする工芸集落を営んだ。 又同時に本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌堂を設けたが、光悦翁の歿後、寺として日蓮宗光悦寺となり今日に到っている。 境内の一角には苔むした光悦翁の墓碑が、今も鷹ケ峰の松籟を聞きつつ静かに立っている。 本阿弥光悦 本阿弥家は代々刀剣鑑定、磨砺、浄拭を家業とし、今も尚其の業を続けている家柄である。 光悦翁は永禄元年(1558)本阿弥光二を父とし妙秀を母としてその長男に生まれ幼名を次郎三郎と称した。 加賀前田侯の扶持200石を父の代より受け、禁裏を始め将軍家及び諸大名の御用をもつとめたが、 本業とは不即不離の芸術面にその豊かな才能を以て多くの作品を遺した事は日本文化の上に大きな功績である。 光悦翁が鷹ケ峰に工芸集落を経営したことは前にも述べたが、 その創意と指導のもとに作られた多くの作品には作陶に於ける茶碗や、書道絵画における歌巻、 色絵版下を書いて出版した光悦謡本等があり其の他蒔絵に彫刻と凡そ多種多様に渉っている。 然もそのいずれもが前人未踏の斬新的な表現法であり、驚嘆の目を見張らないものはない。 書道は、寛永の三筆と称され近衛信尹、松花堂昭乗と共に名筆にうたわれ、多くの秀れた遺品がある。 寛永14年2月3日その偉大な人生八十年の幕をとじたのである。 光悦寺の茶席 光悦翁が茶道に於いても一流儀に偏することなく、 古田織部や織田有楽斎にも教えをうけ、又千宗旦とも最も深く交わって茶道の奥義を極めた。 本堂に通ずる廻廊の下をくぐり北山杉の木立ちを行けば右側に古池がある。 池の前方に三巴亭茶席がある。 三巴亭の南方は光悦翁終焉の大虚庵茶席で此の席は翁の歿後廃滅したが大正4年に至り現在の大虚庵が復興したのである。 光悦垣又は臥牛垣とも称する特徴のある垣根に囲まれた内露地には石灯籠と手水鉢があり、今も昔を偲ばせている。 建物の外観は切り妻造柿葺で前面に附廂があり、 入口には板戸二本引きの、にじり口、内部は五帖台目で床の間は土天井とし隅を塗廻として昔の大虚庵茶室の名残を示している。 大虚庵茶室の前方に了寂軒茶席がある。 徳友庵茶席は光悦翁の号徳友斎から採って名づけられたものである。 本阿弥庵茶席は遙かに京都市内を見下す場所に建てられている。 その他騎牛庵茶席等があり光悦寺境内に形成されている茶席の聚落は茶会の催しともなり 又杖を引きて光悦翁の人柄をしたい卓越した芸術の新様式を確立した翁への敬慕に集まる 人々の心の休息所となっている。 開園時間 午前8時より午後5時まで 閉園日 毎年11月10日より13日までの4日間
光悦寺 大虚山と号する日蓮宗の寺である。 当地は、元和元年(1615)徳川家康によりこの地を与えられた本阿弥光悦が一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。 光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。 当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦没後に、本法寺の日慈上人を開山に請じて寺に改めたものである。 京都市 案内板より
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