甲府 東光寺(とうこうじ)
     Kofu Toko-ji Temple
          天空仙人の神社仏閣めぐり

甲府 東光寺 中門 写真 甲府 東光寺 仏殿 写真
「中門」「仏殿」
ChumonButsuden
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甲府 東光寺 仏殿 写真 甲府 東光寺 写真
「仏殿」
Butsuden
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甲府 東光寺 木造薬師如来座像 写真 甲府 東光寺 木造薬師如来座像 写真
「木造薬師如来座像」「木造薬師如来座像」
Yakushi-nyorai-zouYakushi-nyorai-zou
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池泉観賞式庭園


甲府 東光寺 池泉観賞式庭園 写真 甲府 東光寺 池泉観賞式庭園 写真
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甲府 東光寺 池泉観賞式庭園 写真 甲府 東光寺 池泉観賞式庭園 写真
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甲府 東光寺 武田菱 植え込み 写真 甲府 東光寺 五重石塔 写真
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甲府 東光寺(とうこうじ)

Kofu Toko-ji Temple

山梨県甲府市東光寺3−7−37 

3-7-37,Tokoji,Kofu-shi,Yamanashi


法蓋山東光寺


東光寺の歴史

当山は法蓋山東光寺といい、臨済宗妙心寺派の寺である。伝えによれば草創は平安時代末期、甲斐 源氏の祖新羅三郎義光が保安二年(1121)、国家鎮護仏法興隆の祈願所として諸堂を建立。本尊 に釈迦如来を安置、興国院と名づけたことに始まるといわれる。

鎌倉五山建長寺開山、蘭渓道隆禅師は、文永五年(1268)、元国(今の中国)のスパイなど、根拠 のないうわさから甲州に配流され当山に入山した。そのため臨済禅とのつながりが生じ、密教から 禅宗寺院として七堂伽藍が整備された。道隆禅師入寂後も、門弟・法孫により清規(しんぎ)は維 持され、甲州禅文化の中心的存在となった。

幕府の禅宗官寺制度では、五山十刹の諸山にその名をつらねた。このころ(1320年代)、寺号の 興国院を東光寺と改めた。

東光寺の歴史には不明な部分が多い。室町時代までは歴代住職すら不明で、永正八年(1511) にはじめて、仁甫珠善禅師(にんぽ しゅぜん ぜんじ 歴代二世)の名が出てくる。このころに は鎌倉建長寺派との縁もなくなり妙心寺派と変わった。

室町時代は武田家の保護尊宗をうけ寺運は栄え、諸堂が整備された。武田信玄は臨済宗妙心寺派に 深く帰依し、鎌倉・京都五山にならい「甲府五山」を開いた。長禅寺・東光寺・法泉寺・能成寺・ 円光院がそれである。

信玄の時代、当山の住職は藍田恵青(らんでん えじょう)和尚であった。藍田は信玄の伯父に当 たり幼名を武田二郎といい、仁甫禅師につき出家得度した。信玄の帰依は厚く、天文年中、諸堂は 再興され寺域は整備された。

天正十年四月三日、武田滅亡後織田信長は、恵林寺の僧、七十余人の雲衲(うんのう)らを山門楼 上に集め火を放った。快川国師ら高僧は偈を唱え火定に入った。高僧の中に東光寺藍田和尚がいた ことは有名である。

江戸期に入り甲府城主柳沢家の保護をうけ、享保二年(1717)、仏殿・薬師如未・十二神将像 などが修理され面目を一新した。柳沢吉里の嫡子、幸三郎は享保三年に、時英も同七年早世した。 吉里は当山に墓塔を建て二児の菩提を弔った。そのため柳沢家の帰依は厚く、吉里自筆の書画が寄 進された。

慶応四年(1868)の寺記による規模は御朱印地十四石四斗、境内三千七百八坪、山林三十五町 歩余、本堂・仏殿・禅堂・庫裡・役寮・書院・浴室・拈案寮・惣門・中門・里一門・裏門・土蔵・ 納屋・高春院・耕雲院など、七堂伽藍と数多くの建物は壮観をきわめた。

明治維新を迎え廃仏毀釈の令により広大な寺領や、寺の背後の法蓋山をはじめとして、多くの山林 などが上知として政府に上納された。昭和二年(1927)、仏殿は国宝建造物に指定。二十年七 月六日、甲府大空襲で本堂・庫裡は焼失。幸い仏殿・山門・鐘堂は残った。先の天正壬午、織田の 兵火もま氾がれた。昭和二十五年、仏殿は重要文化財の指定をうけ、三十一年解体修理に着手。翌 年現在の美しい姿に生まれかわった。その後、本堂・庫裏・書院・庭園が整備された。


仏殿  重要文化財

東光寺仏殿は、国指定の重要文化財で、武田氏に保護され、天文年間(1522〜54)、信玄の 援助で諸堂が再興されたといわれ、甲府五山の一つとして盛観を誇った。天正十年(1582)四 月、武田滅亡後、織田信長は甲府善光寺に本陣を置き、東光寺を焼いた。しかし、不思議に仏殿だ けが焼け残った。仏殿の中の柱に織田軍が乱入した時の刀きずが残っている。

昭和二十年七月六日の甲府大空襲でも諸堂は焼失したが、仏殿だけが焼け残り、奇跡な因縁を感じ させる。

この仏殿は薬師如来を安置することから、薬師堂ともよばれている。建築年代は資料がないので確 証できない。

様式的には、室町時代といわれている。仏殿・塔などにみられる、軒下の壁面もこしは、後世の修 理改築で現在の姿となったが、発見された棟札により、寛永六年(1629)の大修理によるもの といわれている。

仏殿は低い基壇上に建てられ、方三間(約5.4メートル)、もこしつきで、もこし柱は面取り角 柱である。正面中央は引き分け桟唐戸、両わき四間は格子戸、特に唐様の特色である粽つきの円柱 と礎石の間に礎盤を入れ、檜皮ぶき重層入母屋様式の屋根は、宋時代の禅寺を思わせる優雅な室町 時代の様式を伝えている。

昭和三十一年に解体修理が完成し、現在の美しい姿は、清白寺仏殿・最恩寺仏殿とともに、中世禅 宗建築を知る重要な建造物といえる。


薬師如来 県文化財

東光寺仏殿の本尊、薬師如来は、正しくは「東方薬師瑠璃光如来」とよばれ、鎌倉時代の作である。 この仏様は、東方浄瑠璃光世界の教主といわれ、十二の大誓願を発し、衆生の病苦を救い、無明の 痼疾(長い病い)をいやす如来で、左手に薬壷を持っている。

この寺は鎌倉時代の中頃まで密教寺院だったことから十二神将はこのころ造られた仏像と考えられ る。

十二神将は薬師如来の従者、分身といわれ、薬師経の読誦者を守護する十二の神である。いずれも 天衣をまとい、甲冑をつけた武将姿で、七千の従者を率いて、衆生を病苦から守るという。

のち、十二支の動物と結びついて、頭に十二支の姿を刻むようになったといわれている。いずれも 昭和五十四年二月、山梨県の文化財に指定された。


庭園

県内寺院の庭園で、すばらしい庭園といえば、夢窓国師の作庭であるという見方が一般的であるが、 東光寺庭園は、蘭渓道隆の作庭である。

この寺は鎌倉建長寺から入山した中国の禅僧道隆が開山であることは、はっきりしているが、作庭 の資料はない。

庭園の広さは約四百五十坪で、本堂のうしろにあり、寺の背後にせまる山をそのまま築山とし、山 ろくの傾斜地を利用して滝ぐみをほどこし、手前に池泉を配した庭園である。

東光寺の庭園は、県内に多くみられる大和絵式の作庭とはまったく異質で、北宋山水画風の作庭法 は、中国風のテーマであり、蘭渓道隆の手になるものと考えられる。

道隆の作庭は、園遊式の庭園とかけはなれ、庭全体を占める池の面積は小さく、地元産の大小の石、 奇石をたくさん使い、禅寺特有の厳しさと枯淡の造形美をあらわしている。

東光寺庭園は池泉観賞式庭園といい、滝は中国黄河中流の、伝説の「竜門瀑」の滝を登った鯉が、 竜に化身するさまを、自然石の石組みで見事に表現している。滝の落ち口の前方には、人工石の舟 が浮かび、蓬莱を表した山形石を組んだ景色は、一幅の北宋山水名画を思わせる山梨における第一 級の名庭である。

この庭園は、山梨県の名勝に指定され、昭和六十一年に補修復元工事が行われた。


東光寺開山 蘭渓道隆

宋の帰化僧で、名を道隆という。蘭渓は号である。道隆は諸国歴遊ののち、日本教化を志し三十二 歳の時、寛元四年(1246)、九州博多に来日第一歩をしるした。道隆の来日は日本禅文化に大き な影響を与え、新鮮で純粋な宋朝禅は、わが国禅宗興隆の新たな第一歩となった。

道隆が鎌倉に入ったのは、宝治二年(1248)ころといわれ、執権北条時頼の厚い帰依をうけた。 建長五年(1253)、時頼は建長寺を開基道隆は招かれて開山となり、他宗の影響を排した純粋 な宋朝禅の道場とした。五十三歳ころ、後嵯峨天皇の命で、京都建仁寺に入山、三年後鎌倉に帰山 した。

このころ旧仏教徒の間には、新興の禅宗に対し迫害を加え、蘭渓をおとし入れるため、事実無根を 幕府にざん言した。文永九年、建治三年と甲州に流された。幕府は配流することによって、実は道 隆を保護したのであろうといわれている。

道隆を迎えた守護武田氏や、その老臣たちは、その仏法に深く帰依した。甲斐における臨済禅教化 のはじめである。

薬師堂に安置される「薬師如来・十二神将像」は開山蘭渓禅師が将来したものだといわれ、十二神 将子神像の頭部内側には「弘長二年一月五日」(1262)の墨書銘がみえる。

塩山向岳寺蔵の国宝「達磨画像」の著讃は蘭渓であり、その書風はすばらしい。蘭渓が入寂すると、 朝廷は幕府の奏請を許し、禅師に「大覚禅師」の諡(おくりな)を与えた。わが国の禅師号のはじ まりである。

現在東光寺には、当時を知る唯一の直接文献というべき貴重な蘭渓道隆書簡が保存されている。

これは年を明らかにしないが、後に鎌倉建長寺に帰った道隆が当寺に出した手紙であって、その最 初に「興国法兄老禅師」とある。

ここに興国とあることは、この時まだ東光寺とは改称されていなかったことを意味している。興国 法兄老禅師は道隆が興国禅寺の二世とした人物で、おそらくは道隆の高弟の一人であろう。


武田氏と東光寺

武田義信公と東光寺

信玄の嫡男義信は天文七年(1538)の生まれで母は二条夫人である。 義信の妻は駿河今川義元の娘で、甲・駿のきずなとなった。 信玄は西上の志に燃え、義元の急死後、駿河をおさえ東海地方へ進出を心に決めていた。 義信は父の駿河侵攻に反対。義元の仇敵織田信長と結んだことにも強く反発し、父子の確執の溝は深まっていった。 「信玄は親今川派で義信の守り役飯富虎昌を成敗。 義信を当寺へ幽閉した。永禄十年(1567)十月、義信は死んだ(二十歳)。 死因は自殺・病死ともいわれ、真相はわかっていない。 甲・駿の不和が義信の命を縮めたことにまちがいない。 法名は東光寺殿籌山良公大禅定門で、当寺に葬られている。


諏訪頼重公と東光寺

信玄は天文十一年(1542)、突如諏訪領に侵入諏訪氏を滅ぼした。 諏訪頼重の妻は信玄の妹禰禰であり、義兄弟を攻めたことになる。 信玄は頼重反対派の高遠頼継らの内乱に介入、高遠派と結び七月四日、頼重の本城桑原城を囲んだ。 信玄は「開城すれば甲州へ陣を引く」という和議を入れた。 頼重はこれに同意「甲州へかうさんいたし、武田殿に人数を申うけ、同名信濃(高遠頼継)に腹を切らせへき段おほしめし...。」 というつもりであった。 頼重は信玄より一族の高遠頼継をうらみ「真の敵は誰か」を見抜けなかった。 頼重は五日甲府に護送され当寺に幽閉。二十一日自殺した。二十七歳の若さであった。 墓は本堂の裏手にあり、武田義信の墓と並んでいる。


柳 里恭

柳里恭(1704〜58)は柳沢淇園ともいい、柳沢吉保の家老権太夫保格の二男、権太夫里恭と名乗った。 里恭はあらゆる武芸・学問・遊芸に通じ、歌謡音曲など遊芸のうち、人の師たる芸十六におよんだといわれ、 通人として有名である。 なかでも漢詩・随想をよくし、また文化画家としても名高い。 また池大雅を見いだしこれを指導した功績は大きいといわれている。


柳沢吉保・吉里

五代将軍綱吉の側用人、柳沢吉保(1658〜1714)は深く禅に帰依し、 江戸竜興寺洞天禅師、黄檗高泉禅師らに師事し、宝永元年(1704)甲府城主となり、 甲斐を領してからも恵林寺を再興し、甲府に水慶寺を営んだ。 「吉保の嫡子吉里(1687〜1745)も父同様に神に帰依し、当寺に宝永七年(1710)白銀百枚を寄進し、 大修復をしている。 当寺には柳沢家の廟所があり、吉里の男子一人の墓がある。

九月廿日余り東光禅寺

にまかりしに、山ハふかゝらねと

里遠く時雨に染し紅葉々も、

ことひよりまたきに色つきて

庭のさまみところ

       おほきに

深みとり苔も

    いくとせ

      ふる寺の

庭にいろ

    こき秋の

       紅葉々

吉里

東光寺 しおり より


東光寺 仏殿

東光寺は、蘭渓道隆によって鎌倉時代に再興された臨済宗の寺である。

仏殿は天正10(1582)年の織田信長の兵火及び昭和20(1945)年の戦災を免れて今日に伝えられたもので、 建立年次は明らかではないが、様式からみて室町時代の建築とされている。

桁行3間、梁間3間、裳階つきで、入母屋造、桧皮葦である。 江戸時代初期の修理で、裳階部分が改造され、外観の変更を余儀なくされているが、 低い基壇・竿縁の天井・裳階の角柱・窓・引戸などの部分に、大陸の建築が日本化する過程を示し、 清白寺仏殿(山梨市)、最恩寺仏殿(富沢町)と並んで中世禅宗様建築を知る上で貴重である。

昭和31年解体修理が行われた。

境内 山梨県教育委員会 甲府市教育委員会 案内板より


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