深大寺(じんだいじ) Jindaiji Temple 天空仙人の神社仏閣めぐり
元三大師
元三大師| 延暦寺 元三大師堂| 山寺| 喜多院| 真盛寺 |
「深大寺 元三大師堂」 |
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「山門」 | 「元三大師堂」 |
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Samon | Ganzan Daishido |
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市重宝(建造物) 深大寺山門 指定 平成十年十二月二十五日 桁行 3.55m 梁間 2.32m 建物は一間薬医門、切妻造、茅葺である。主柱、控柱ともに丸柱、上下粽付、下に礎盤を履き、薬医門特有の前寄り屋根を構成する。 この門は和様を主調とするが、禅宗様(唐様)を併用し、一部に大仏様(天竺様)も巧みに取り入れた意匠的にも優れた建物である。 深大寺は、慶応元年(1865)の大火によって建物の大半を失った。この山門はその時の災禍を免れた建物の一つであって、 寺で保管する元禄8年(1695)の棟札によって建立年代が明らかである。 調布市教育委員会 案内板より
元三大師堂 宗旨 天台宗 寺院名 浮岳山 昌楽院 深大寺 総本山 比叡山 延暦寺 大師堂本尊 元三慈恵大師良源 開基 満功上人(法相宗) 733年 西暦850年前後に比叡山の高僧恵亮和尚により天台宗に改宗 他の天台宗寺院 京都三千院・妙法院(三十三間堂) 長野善光寺 日光輪王寺 平泉中尊寺・毛越寺 山形立石寺(山寺) 上野寛永寺 熊野青岸渡寺 等 この元三大師堂は幕末の火災において、荒廃してしまった深大寺の中で最も早く慶応3年(1867年)に再建されたお堂です。 ご本尊は、おみくじの発案者としても名高い元三大師(がんざんだいし)さまです。朝廷から賜った諡(おくりな)は慈恵大師(じえだいし)ですが、元月(正月)の三日に亡くなったことから元三大師と呼ばれています。 お大師さまの法力は誠に強く、如意輪観音の化身と言われており、厄除けのお大師さまとして崇められております。よく目にする降魔像はお大師さまのご修法のお姿を写したもので、魔除けのお札として家々の門戸に貼られております。 殊に深大寺の元三大師信仰は古来より篤く、関東一円からも信者を集めています。 深大寺の元三大師像は、座像でありながら約2メートルもの巨大なお像で、秘仏として50年に一度の本開帳とその中間に行われる中開帳でしかお姿を拝することはできません。 境内 案内板より |
「元三大師堂」 | 「本堂」 |
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Ganzan Daishido | Hondo |
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「元三大師の扁額」 | 「河鍋暁斎の天井画 龍図」 |
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Hengaku | Kawanabe Gyosai Ryuzu |
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河鍋暁斎の天井画 龍図 この画は、元三大師堂正面御拝の天井全面に描かれた竜の飛翔図で、暁斎が当地に足をとどめのこした作品である。 竜の尾の先が横柱にかくれて見えないのは、建築時のあやまりといわれている。 暁斎は天保2年(1831)4月7日下総国葛飾郡古河に生まれ、嘉永5年暁斎洞郁(別号 狂斎)と号した。 徳川末期から明治初期にかけて活躍した駿河台狩野派の正統をつぐ著名な画人で、その優れた作品は関東周辺各地にのこされている。 明治22年(1889)4月25日没。年58。 調布市教育委員会 案内板より |
「金銅 釈迦如来倚像」 | 「毘沙門天立像」 |
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Shaka-Nyoraiizo | Bishamon Ryuzo |
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重要文化財 金銅 釈迦如来倚像 飛鳥・白鳳・天平の三期の中で白鳳の仏像文化は飛鳥期と共に重要視されており、飛鳥仏の神秘的ながらややかたい美しさに対し、白鳳仏は豊満で、清楚な流動美をたたえています。 当山奉安の尊像は、白鳳期の代表作と称され、殊に関東に伝わった経緯は不明ながら天平5年の当山開創の頃の本尊仏と推定されています。 境内 案内板より
毘沙門天立像 本像は、明治31年の「深大寺明細帳」によれば、寺中の多聞院にあったが、明治初年同院廃寺ののち大師堂に安置されたとある。 現在は釈迦堂にあり、市内七福神の一つとして尊崇されている。材質・構造は木造・一木造・玉眼、仕上は素地、像高は42.3cm、面部の割矧(わりはぎ)及び玉眼、両肩先、両足半ばより先、光背、邪鬼、兜、持物などは後補。 毘沙門天は、インド古代神話中の護法神の一つで、四天王ないしは十二天のうち、北方守護神であるが、福徳富貴の神としても尊崇され、後世七福神の一つとなる。 仏法守護の役割を表わすため、武装忿怒形をとることが多いです。本寺にゆかりの深い深沙大王は、毘沙門天の化身である。 本像は、素朴な造りの小像であるが、平安時代後期の作風がみられる。市内では数少ない平安彫刻として重要なものである。 調布市教育委員会 案内板より
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「開山堂」 | 「薬師瑠璃光如来像」 |
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Kaisando | |
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開山堂 この開山堂は、昭和58年(1983)の深大寺開創1250年記念事業として新築され、遙か天平の開創に思いを馳せる奈良時代様式のお堂です。 ご本尊は薬師瑠璃光如来。脇侍に弥勒簿菩薩と十一面観音を奉安し、深大寺を開いた満功上人像と、宗派を天台宗に改めた大楽大師恵亮和尚像をそれぞれお祀りしています。 毎月15日の午前9時より開山忌法要が執行されます。 深大寺の隆盛に因んで出世開運のご利益があります。 境内 案内板より |
「元三大師石像」 | 「千手観音石像」 |
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Ganzan Daishi Sekizo | Senju Kannon Sekizo |
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「不動明王像」 | 「不動明王像」 |
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Fudomyoouzo | Fudomyoouzo |
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「延命地蔵」 | 「延命地蔵」 |
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Enmeijizo | Enmeijizo |
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「厄除け元三大師 絵馬」 | 「絵馬」 |
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Ema | Ema |
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「深大寺」 | |
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Jindaiji Temple |
「蝋燭立て」 | 「破魔矢」 |
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Rosoku-Tate | Hamaya |
「だるま」 | 「元三大師降魔札」 |
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Daruma | Gansan Daishi Koma Fuda |
「だるま絵馬」 | 「厄除け元三大師絵馬」 |
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Ema | Yakuyoke Ganzan Daishi Ema |
東京都調布市深大寺元町5丁目15−1
5-15-1,Jindaiji-Motomachi,Chofu-Shi,Tokyo
JR中央線吉祥寺・三鷹駅から深大寺行きバスで約30分
深大寺 「浮岳山昌楽院深大寺」 武蔵野の面影を今に残し、優麗なたたずまいをみせる深大寺。 参道より石段を登ると、正面に「浮岳山」の山号額を掲げる重厚な山門があります。 主柱を3.6m間隔に立てて扉を付け、後方に細 い控え柱を立てた薬医門と呼ばれる形式のもので、材はケヤキ。 東京に残る江戸時代の建築の中でも、意匠的に特にすぐれた もののひとつです。 武蔵野の水と緑と寺とそば
多摩川に沿って走る武蔵野の丘陵、その一角に樹林と湧き水に囲まれて 深大寺があります。 建物は茅葺きの平家造りで、境内には、池あり、谷あり、崖あり、杉小立や松の古木など景勝豊かな自然に包まれています。 深大寺は一年を通して、春の花、夏の緑、秋の紅葉、冬の陽だまりと、 自然が織りなす美しい四季の諧調に彩られます。 また、名物として名高い深大寺そばは、古くから賞味されており、江戸時代には将軍家、上野東叡山にも献上されていました。 現在、門前には二十数軒ものそば屋が軒を並べています。 深大寺は、旧寺領であった都立神代植物公園をも含め、都心から最も近い、 武蔵野の面影を残す憩いの場として、人々に親しまれています。 歴史のあらまし 深大寺の名は、深沙大王という水神に由来しています。 深沙大王は本来、疫病を除き魔事を遠ざける功能のある神で、 その昔、中国の三蔵法師が経を求めて、インドに旅して、流砂河という大河を渡るとき、この深沙大王に救われたと言われています。 開創縁起によれば、深大寺の開山満功上人の父福満が郷長右近の娘鐘楼文政12年(1829)に建てられた旧鐘楼は、 江戸時代末の大火で焼失。その後、明治3年(1870)に再建され、山門の右手に建てられた。重要文化財の梵鐘を釣る。 白鳳仏(釈迦如来倚像)明治42年(1909)元三大師堂の壇下から発見された。この像の伝来や本寺との関係は謎に包まれているが、 清純な微笑をたたえた表情と、端正な姿をめぐる流れるような衣文によって親しまれている。 深大寺縁起絵巻深大寺の由来にまつわるこの絵巻は、まず、福満の恋物語から始まり、深大寺開創にちなむ霊験譚のあらましと盛衰の歴史が描かれている。 と恋に落ちましたが、右近夫妻によって、湖の島へ娘を遠ざけられてしまいました。 そこで福満は、深沙大王に祈願したところ霊亀が現れ、彼を島へ連れて行きました。 この奇瑞を知って右近夫妻も二人の仲を許し、そして生まれたのが満功上人です。 上人は父の念願によって出家し、法相宗を学び、733年に寺を建てて、750年に深沙大王の像を安置しました。 その寺が、深大寺です。 開かれてのち100年・武蔵国司蔵宗の乱がおこり、その降伏を祈念するため、朝廷の命をうけ、天台宗の高僧恵亮和尚が深大寺にその道場をさだめました。 乱がおさまったのち、朝廷は恵亮和尚の功をたたえ、深大寺を与えました。 この時、深大寺は天台宗に改宗しました。 991年には、天台座主元三慈恵大師が多くの人々を救いたいという願いから自刻像を深大寺にうつし、おまつりしました。 民衆の厄難を救うために建てられたこの寺の本願は、今もなお参詣の檀信徒の心に生きています。 寺宝 山門を入ると、正面本堂に恵心僧都作の本尊、弥陀三尊仏が安置されています。 左は厄除元三大師堂で、大師自刻像が安置されています。 山門向って左手の樹林の中に深沙大王堂があります。 右は鐘楼で梵鐘は東京都第二の古鐘として重要文化財に指定されています。 大師堂の左方に建つ小堂が釈迦堂で、ここに著名な白鳳仏が安置され、ガラス越しにいつでも拝むことができます。 境域二万坪、幽遂な自然に溶けこんだ諸堂宇と伝存する寺宝の数々に、 深大寺の古代以来の歴史と、その現代に生きる姿をうかがうことができます。 本堂 江戸時代末の大火で焼失した後、大正初めに今の本堂が完成した。唐破風の屋や、彫り物に重厚さを感じる。 本尊の阿弥陀如来像は、本堂の須弥壇上に安置されている。 伝教大師御尊影比叡山での修行の基本理念を、伝教大師は「一隅を照らそう」という言葉で表現しています。 深大寺は、大師の志しを現代に生きる人々に呼びかけているのです。 鐘楼 文政12年(1829)に建てられた旧鐘楼は、江戸時代末の大火で焼失。 その後、明治3年(1870)に再建され、山門の右手に建てられた。重要文化財の梵鐘を釣る。 白鳳仏(釈迦如来倚像) 明治42年(1909)元三大師堂の壇下から発見された。 この像の伝来や本寺との関係は謎に包まれているが、清純な微笑をたたえた表情と、端正な姿をめぐる流れるような衣文によって親しまれている。 深大寺縁起絵巻深大寺の由来にまつわるこの絵巻は、まず、福満の恋物語から始まり、 深大寺開創にちなむ霊験譚のあらましと盛衰の歴史が描かれている。
深大寺の名は、深沙大王という水神に由来しています。深沙大王は本来、疫病を除き魔事を遠ざけ る功能のある神で、その昔、中国の三蔵法師が経を求めて、インドを旅して流砂河という大河を渡 るとき、この深沙大王に救われたと言われています。 開創縁起によれば、深大寺の開山満功(まんくう)上人の福満が郷長右近の娘と恋いに落ちました が、右近夫妻によって、湖の島へ娘を遠ざけられてしまいました。 そこで福満は、深沙大王に祈願したところ霊亀が現れ、彼を島へ連れていきました。この奇瑞を知 って右近夫妻も二人の仲を許し、そして生まれたのが満功上人です。 上人は父の念願によって出家し、法相宗を学び、733年に寺を建てて、750年に深沙大王の像 を安置しました。その寺が、深大寺です。 開かれてのち、武蔵国司蔵宗の乱がおこり、その降伏を祈念するため、朝廷の命をうけ、天台宗の 高僧恵亮和尚が深大寺にその道場を定めました。乱がおさまったのち、朝廷は恵亮和尚の功をたた え、深大寺を与えました。この時、深大寺は天台宗に改宗しました。991年には、天台座主元三 慈恵大師が多くの人々を救いたいという願いから自刻像を深大寺にうつし、おまつりしました。民 衆の厄難を救うためにたてられたこの寺の本願は、いまもなお、参詣の檀信徒の心に生きています。 深大寺のしおりから
永観3年(985)の正月三日に遷化されたので元三大師と呼ばれ、「慈恵」の諡号(しごう)を 賜わったことにより慈恵大師と称される。 また、数々の霊験や説話が残されており、降魔大師・魔除大師・角大師・豆大師など霊験ある聖者 ・元三大師として信仰を集めている。角大師は厄災を降伏させる恐ろしい形相の護符である。 また、豆大師は小さな大師の姿が豆粒のように9段33個並べられているお札である。 疫病が流行していた永観2(984)年、元三大師は鏡の前で座禅をし、自らの姿を骨ばかりの鬼 に変え、その姿を写した弟子の絵を、お札に刷って家々の戸口に張るように命じ、疫病を退散させ た、という。 自ら鬼となって魔物と闘うので、降魔大師の名がある。ちなみにこの元三大師さま、実は「おみく じ」を最初に考案した人でもある。
深大寺 天平5年(733)に満功上人が開いた関東屈指の古刹で、正しくは浮岳山昌楽院深大寺といいま す。ご本尊は本堂にいらっしゃる阿弥陀如来像。釈迦堂に安置される釈迦如来倚像も有名な仏さま です。周囲は武蔵野らしい木立に囲まれ、湧き水も流れ、ゆったりと散策を楽しむのに最適です。 開門時間:5:00〜17:00 TEL.042-486-5511
[山門] 重厚な茅葺きの屋根が印象的な門で、正面に「浮岳山」の山号額を掲げます。この門は、江戸時代 の元禄8年(1695)に建てられたといわれ、深大寺の中で一番古い歴史を持ちます。深大寺の 諸堂を焼きつくした幕末の大火を逃れた貴重な建築物です。
[鐘楼] 明治時代に再建された、江戸時代の様式を色濃く残す鐘楼で、戦後になって入母屋茅葺きの屋根か ら、今のような銅板葺きの屋根になりました。毎日欠かさず早朝と夕方、そして昼の11時半に鐘 音を響かせます。
[元三大師堂] 天台宗総本山延暦寺の象徴、天台座主。その第18代目を継承した慈恵(元三)大師が自ら作られた 尊像を安置するお堂です。厄除けをはじめ除災招福、商家繁栄、良縁成就、交通安全などのご利益 があり、昔から人々の崇敬を集めてきました。毎年3月3日、4日の両日に開催される「厄除元三 大師祭」は深大寺最大の行事で、縁起だるま市も開かれ、多くの人々が境内を埋め尽くします。
[釈迦堂] 仏像美術史上でも貴重な仏さま・銅製の釈迦如来倚像を安置するとともに、これらを火災や盗難か らお守りするお堂です。釈迦如来倚像は、明治時代に元三大師堂の壇下から発見された白鳳時代の 仏像で、重要文化財に指定されています。お顔立ちや流麗な衣文、若々しい青年を思わせる肉付き など白鳳仏の特徴をよく伝え、新羅や隋の仏像にその源流を辿ると考えられる貴重な倚像(椅子に 腰かけた姿の像)です。
[深沙大王堂] 静かな木立の中にひっそりと建つ小堂で、満功上人作と伝えられる深沙大王立像が祀られています。 像の高さはわずかに57cmですが、どくろの胸飾りを付け、象皮の袴をはいた忿怒の形相すさま じい秘仏です。深沙大王は、玄奘三蔵がインドヘ行く途中に、玄奘を守護したという仏教の守護神 のひとりで、深大寺の名はこの深沙大王にちなむといいます。
深大寺「恋」物語 深大寺の開創にこんな話が伝わっています。開山満功上人の父福満が郷長の娘と恋に落ちたものの、 娘の両親の反対にあい、湖の島へ娘を引を離されてしまいます。そこで福満が深沙大王に祈願した ところ霊亀が現れ、彼を島に渡しました。それを知った両親は二人の仲を許し、満功上人が生まれ ます。上人は父の願いにより出家、勉学を重ね深大寺を開基します。そして深沙大王の像を安置し たといいます。 京王 深大寺周遊 パンフレットより 奈良時代の開創以来、深大寺の中心地は当所より西に位置する深沙大王堂一帯でした。 中心地よりやや離れていたこの場所が、はたしてどのような様子であったかは不明です。 室町期には阿弥陀仏を昼夜不断に唱え念じる修行を行う「常行堂」が存在していましたが、この場所であったか定かではありません。 しかし江戸時代初期、幕府の政策によって檀家制度が確立すると、「常行堂」の本尊、宝冠阿弥陀仏像は、滅罪回向の本尊として迎えられ、 また元禄年間に1000人の普請により現在の山門が建てられることなどを考えると、 少なくとも江戸の元禄までに寺の中心地は当所へと移り、先祖回向を中心とした本堂が確立していったようです。 この本堂は、幕末の大火で焼失したのち大正時代に再建されました。 本尊は弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)ですが、宝冠を被った珍しい阿弥陀さま(宝冠阿弥陀)として注目されています。 宝冠阿弥陀像は密教の曼荼羅に描かれる尊像で、特に天台宗の常行三昧という修行の本尊として知られています。 このお像も、かつて室町期の深大寺に存在していた常行堂の本尊であったことが、 永享8年(1436)の胎内修理銘によって明らかとなっています。 その製作年代は鎌倉時代と推定されますが、それよりも古い恵心僧都作とも伝えられ、 特に近年は著しい傷みがお像の各所に見られましたが、平成22年より1年間の歳月をかけて平成の大修理が施され、 見事に往時の荘厳さを取戻しました。 宝冠阿弥陀像自体の伝存例が全国的に極めて少ないなか、大変貴重なお像として、ご参詣の皆さまから滅罪の信仰があつまっています。 境内 案内板より
市重宝(彫刻) 深大寺 慈恵大師坐像(一躯) 本尊は大師堂の本尊である。慈恵大師は、天台宗の僧・良源のおくり名で、元三大師とも呼ばれている。 近世には元三大師がこの寺の信仰の中心で、明和2年(1765)と文化13年(1816)には、両国回向院で出開帳が行われた。 本像は秘仏であり、ご開帳が行われるのは50年ごとである。最近では昭和59年(1984)に行われた。 左手に独鈷を、右手に数珠を執る。材質・構造は木造・寄木造、仕上は彩色、像高は一九六・八センチメートル。 慈恵大師の肖像彫刻で、これほど大きな作品は例が少ない。 大師の容貌魁偉な様相を巧みにとらえ、全国に数多い大師像のなかでも優れた作品といえる。 制作は、鎌倉時代後期から南北朝時代と推定される。 調布市教育委員会 案内板より
近藤勇と新選組ゆかりの地 (深大寺) 深大寺元三大師堂内天然理心流一門の奉納額 元三大師堂内に掲げられた奉納額で日露戦争に出征した天然理心流五代近藤勇五郎の門人たちのために、 明治40年3月3日に奉納されたものである。 近藤勇五郎は、近藤勇の実兄音次郎の次男で勇の娘瓊子と結婚し近藤家と天然理心流を継いだ。 調布市観光協会 案内板より
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