鞆の浦 鞆の浦 安国寺(あんこくじ) Ankokuji Temple 18.Feb.2005 天空仙人の神社仏閣めぐり
「山門」 | 「本堂」 |
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San-mon | Hondo |
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「釈迦堂」 | 「釈迦堂」 |
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Shakado | Shakado |
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「鞆の浦 安国寺本堂庭園」 | |
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Hondo Teien | |
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「手前 法燈国師像 奥 木造 阿弥陀三尊像」 | 「木造 阿弥陀如来像」 |
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Houtou Kokushi-zou | Amida-Nyorai-zou |
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Ankokuji Temple
広島県福山市鞆町後地990−1
990-1,Ushiroji,Tomo-Cho,Fukuyama-shi,Hiroshima
安国寺 安国寺の歴史 村上正名 安国寺は寺伝によれば、暦応2年(1339)足利尊氏の命により、愚谷和尚が創建したようになっている。 これで見ると、南北朝時代に足利尊氏が全国に一寺一塔を建立した備後の寺となる。 ところが仏殿の修理やその中に収められた阿弥陀(あみだ)三尊像、法燈国師坐像などの修理中、 発見された胎内の墨書や文書などにより、創建はさらにさかのぼる鎌倉時代文永年間と考えられるにいたった。 阿弥陀像の胎内銘が文永11年(1274)であり、 この前年に捨入された位牌(いはい)には「癸酉金宝大工藤原季弘奉造捨入」とあって、癸酉の年が文永十年で、 金宝寺の建立に関係の大工が「初祖達磨円覚大師」の位牌として造ったことが刻んである。 また弥陀三尊像は墨書銘に「金宝寺之尊像」と記されて、金宝寺なる寺院の仏像であることが判明した。 また胎内に納入されていた数多い写経などに文永十一年の年紀が記されるなど、たしかに鎌倉時代に造立されたことが立証される。 そうして見ると、現存する仏殿も創建は金宝寺の建物で、これらが後に足利尊氏の発願による安国寺にすりかえられたのである。 安国寺の名称が文献の上に最初に見られるのは、足利尊氏の時代を遠く下って、 応永六年(1399)の大般若経奉納の奥書に「備後国鞆浦安国寺常住」という僧の名が見えているので、 このころは、すでに安国寺と称していたことは判明する。 尊氏の備後安国寺の文献としては、彼が寄進した文書が尾道浄土寺に伝わり、備後国の安国利生塔一宇となり、 その塔にあった鉄灯炉なども伝えられ、塔の方は尾道浄土寺境内に建立されたことがはっきりしている。 太平記にも見られるように、尊氏にとって備後領内で重要な土地は尾道と鞆の津で、塔を浄土寺に建立し、 従来あった鞆の金宝寺を安国寺に改称させているのであろう。 したがって、建物や仏像は安国寺以前の金宝寺のもので、鎌倉時代の優作が現に保存されているのである。 室町時代には大変栄えた様子であるが戦国時代、一時衰退していたものを、 天正七年(1579)安芸の安国寺の出身である安国寺恵瓊が再興し、子院塔頭も多く存在し、 現在の釈迦堂を中心に海岸にまでのびる境内をもち、寺観をととのえたが、江戸時代に再び衰微し、 とくに明治、大正にかけてその極に達し、大正九年に本堂が焼失してからは廃虚となり庫裡(くり)も俗家と化し、 唯一の釈迦堂が荒廃して残存したが、その後、歴代住職の努力によって、昭和二年仏殿が国宝に指定され、 昭和七、八年に解体修理され、昭和十七年に弥陀三尊像や法燈国師像などが国宝に指定されて 修理されるなど、面目を一新してきた。 境内も県史跡に指定され、埋もれていた庭の発掘がなされ整備されるなど、現在着々と文化財としての保存が完備されている。 (筆者は県文化財専門委員)
安国寺の文化財 国重文 安国寺釈迦堂 −鎌倉時代− 金宝寺時代の仏殿で、鎌倉時代に禅宗とともに入ってきた唐様の典形的なもの。 入母屋造りの屋根 (ときょう)をの組物で支え、 軒は疎欄木(そたるき)となり、内部はかわら敷で、中央に鎌倉時代そのままの須弥壇が逆蓮頭の高欄をめぐらして、 唐様建築としては日本でも最古にぞくする名建築である。
国重文 木造阿弥陀如来および両脇侍立像 −鎌倉時代− 鎌倉時代に流行したいわゆる善光寺如来。この種木像としては日本一最大なものである。 一光三尊の巨大な船形光背(高さ3.13メートル)をもち、本尊の高さ1.7メートル、脇侍1.3メートルの等身像である。 寄木造りで胎内に銘文をもち、文永十一年(1270)金宝寺の尊像として勧進され、 胎内納入品として経巻、念仏記、勧進帖、願文、袈裟(けさ)、横笛、短刀、漆塗箱、数珠など12件20点が存在し、 文永十一年三月の銘記などがあり、重文に指定されている。
県重文 達磨大師位牌 −鎌倉時代− 裏面に「癸酉金宝大工藤原季弘奉造捨入」と刻まれ、癸酉が文永十年にあたり、鎌倉時代、位牌(いはい)の遺品として、また安国寺の前身金宝寺の存在を物語る貴重なものである。
国重文 木造法燈国師座像 −鎌倉時代− 法燈国師は安国寺の創建者と伝える愚谷和尚の師で、開山とされている。 この像は国師六十九歳の寿像で内部に水晶五輸塔と法燈国師の建治元年(1275年)十二月十八日付の文書と寛文四年の修理記が存在した。
国重美 石造地蔵菩薩座像 −鎌倉時代− 光背裏面に元徳二年(1330)造立銘文が刻まれ鎌倉時代の作品としてまことに珍しい。 船形光背に半肉刻まれた像が八角九重の台坐にのる台坐の蓮弁や格座間の浮き彫りが美しい。
安国寺本堂庭園 重森三玲 安国寺の伽藍配置は、各禅宗本山に見るものと同様な直綜式の三門、仏殿、法堂(現釈迦堂)方丈(焼失本堂)が完備されていたものと推定されます。 そして方丈側面の庭園として、室町期に起りました枯山水(水を用いない庭園の一様式)が、 安国寺方丈庭園として荒廃され乍らも、保存されて来たのでありました。 この度多年の念願によって、私が復原修埋を行いまして、作庭当時の美観をとりもどしたのです。 本庭は室町末期の作庭園として有名な京都の大徳寺大仙院庭園や、妙心寺退蔵院庭園の折衷的な庭として構成されていますので、 それらの庭園の出来ました時代よりやゝ下る時代、即ち室町末期の天文末年か、又は桃山初期の弘治年中にかけて、作庭されたものと推定されます。 しかし、部分的には、枯滝の石組が天正期の京都本法寺のものに似ていたり、新しく発見された石橋の失穴が桃山期のもので、 鞆城の石垣にある刻文回と同様のものが見られるばかりでなく、橋の長さと高さの手法に至るまで桃山期でありますし、 老大木の蘇鉄と共に、天正期で一部改造されたものと推定されます。 これは当時の住持宥尊の再興と、その頃寄寓されていた恵瓊長老の時ですから、その頃の安国寺を物語る好資料でもあります。 この枯山水式の庭園は、枯山水の地方分布から申しましても最も古く、鞆港が足利尊氏以来の文化と、 安国寺の勢力強大であったことを物語っていますので、鞆地方最大の誇りであることは言うまでもありません。 本庭は蓬莱庭園としての、鶴島(中央)と亀島(向って左手前)を表現し、 前方に軽い築山を作って上部に枯滝と枯流れを見せた渓谷山水の表現で、その左方に蓬莱連山の石組を多数扱ってありますが、 それらの石組の手法と、全体の様式とは室町末期で、前述の如く部分的に天正期と、江戸初期貞享頃の修理が見られます。 (筆者は庭園研究家)
安国寺の行事 1月 1日 元旦祈祷 1月17日 初観音供養 8月21日 大施餓鬼供養 10月13日 法燈円明国師 開山忌 毎月第一日曜 安国寺花園婦人会 毎月第一土曜・日曜 覚心坐禅会 安国寺精進会 十人以上、五十人迄の申込制にて会費 実費 ◎内容 法話・精進料理・抹茶等 福山市鞆町後地九九〇の一 史跡 安国寺 住職 藤井禅郁 電話(084)982-3207 安国寺 しおり より
県史蹟 安國寺本堂跡 創建の由来 瑞雲山安國寺は(臨済禅宗)暦応二年(西暦1339年)法燈國師の法孫愚谷和尚が足利尊氏(鎌倉時代)の命に応じて以前の金宝寺を安國寺と改名して開創されました。 一時地方宗教界の権威を握り末寺九ヶ寺寺領境内頗る広かりしが足利氏失すると共に漸く衰頽し殿宇荒廃せしを 一時恵瓊長老が京都南禅寺より住し(天正元年)(1572年)毛利輝元を大檀越として再営に着し 釈迦堂及び庭園が再興されしが恵瓊長老京にて処刑され徳川の世に移るや又々荒廃せり 其の後寛文の初め仁山和尚再興もあり又万國和尚松永承天寺より移住し領内六郡に石五分の化を課し本山に摸せる方丈の本堂を再建せりと云う。 広く廻廊になり庭園を眺めらる本堂は近在に無き素晴しき本堂であったろうと想像されます。 其の堂宇庭園も明治大正頃には無檀家故に住する者も無く庭は土砂に埋り堂宇荒廃し 大正九年十一月三十日雨宿りの浮浪者が火を失して蒼古七百年来の佛像法具遂に灰となりかろうじて隣寺の和尚法燈國師の像を持出されしと云われています。 現在は境内地と共に県史蹟として保存されております。 山主日 備後安国寺 県史跡昭和30年1月31日指定 瑞雲山臨済宗安国寺は、鎌倉時代の文永年間(1270年代)金宝寺として創建されました。 当時は、三門・仏殿・法堂・衆寮などの七堂伽藍がありました。 南北朝時代足利尊氏により安国寺と改称されました。現存する釈迦堂は金宝寺の仏殿として建てられたものです。 境内全域は県史跡に指定され、釈迦堂と堂内の木造阿弥陀三尊像・木造法燈国師座像などは国重文に指定されています。 また室町時代の枯山水庭園もあります。 1599(慶長4)年安国寺恵瓊は毛利輝元を大壇越として大修復しました。地蔵堂にある石造地蔵菩薩座像は重要美術品に指定されています。
安国寺庭園 この庭園は枯山水式庭園で、白砂や岩石で滝や流水を表わしています。 京都の大徳寺の大仙院庭園や妙心寺退蔵院庭園の折衷的庭園であり室町末期の作庭と推定されています。 三途の川には石橋がかかり、蓬来山には岩石で仏様を表わし、蓬来式庭園ともいいます。 中央部の鶴島にはソテツを配し、亀島には松を植え、鶴亀式庭園ともいいます。 鶴亀式庭園は戦国時代に流行し、武将は自分達や主家の繁栄を願い、作庭しました。 そして石橋の矢文や長さ高さが桃山期の手法で1599(慶長4)年安国寺恵瓊が改造したといわれています。 境内 案内板より
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