旧嵯峨御所 大覚寺(だいかくじ)
     Daikakuji Temple 
                 天空仙人の神社仏閣めぐり
大覚寺 Official Page
旧嵯峨御所 大覚寺 表門 写真 旧嵯峨御所 大覚寺 御影堂(心経前殿) 写真
「表門」「御影堂(心経前殿)」
OmotemonMieido
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旧嵯峨御所 大覚寺 五大堂 写真 旧嵯峨御所 大覚寺 唐門 写真
「五大堂」「唐門」
GodaidoKaramon
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旧嵯峨御所 大覚寺 勅封心経殿 写真 旧嵯峨御所 大覚寺 写真
「勅封心経殿」
Chokufu Shingyoden
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旧嵯峨御所 大覚寺 写真 旧嵯峨御所 大覚寺 大沢池 写真
「大沢池」
Oosawa no ike
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旧嵯峨御所 大覚寺 写真 旧嵯峨御所 大覚寺 写真
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旧嵯峨御所 大覚寺 松ニ山鳥図 狩野永徳筆 写真 旧嵯峨御所 大覚寺 写真
「松ニ山鳥図 狩野永徳筆」
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旧嵯峨御所 大覚寺 正寝殿 御冠の間 写真 旧嵯峨御所 大覚寺 写真
「正寝殿 御冠の間」
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旧嵯峨御所 大覚寺 写真 旧嵯峨御所 大覚寺 写真
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京都 旧嵯峨御所 大覚寺 境内図
「境内図」

旧嵯峨御所 大覚寺(だいかくじ)

Daikakuji Temple

京都府京都市右京区嵯峨大沢町4

4,Sagaoosawa-Cho,Ukyo-Ku,Kyoto-Shi,Kyoto


大覚寺 (旧嵯峨御所)

嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の総本山である。 当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺と改められ、大覚寺と名付けられた。

その後、一時荒廃したが、徳治元年(1308)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興すると共に大覚寺統を形成した。 以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳三年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。 宸殿は、後水尾天皇の中宮東福院の旧殿を移築したものと伝え、 内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅梅図」などの豪華な絵で飾られている。 その外御影堂、霊明殿、五大堂、安井堂、正寝殿、庫裏などの 堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。

京都市 案内板より


大覚寺縁起

大覚寺の正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」といい、真言宗大覚寺派の本山で、 心経写経の根本道場・いけばな嵯峨御流の総司所でもあります。 門跡寺院とは、天皇または皇族が住職に就かれた寺院のことです。 遠く平安の昔、嵯峨天皇の離宮嵯峨院が建立され、弘法大師(空海)も幾度も立ち寄られました。 その後、嵯峨天皇の皇女正子内親王(淳和天皇皇后)が清和天皇に上奏して大覚寺に改め、 嵯峨天皇の孫にあた法親王が初代の住職に就かれました。 南北朝時代には南朝の御所となり、ここで争いに終止符を打つ講和会議が開かれました。 また、現在では、近畿三十六不動尊霊場の第十三番札所として、全国各地から参拝者が訪れます。

五大堂

大覚寺の古文書の中に「嵯峨天皇の勅願により嵯峨離宮に嵯峨五台山明王院五大堂を建立し、 弘法大師が入唐した折 大唐より伝わった。

五大明王(重要文化財につき宝物殿に安置)を奉祀し、弘仁2年(811)3月11日に利民安世、五大明王秘法を修し給う。 たちまち、五風十雨節序にしたがい百穀豊饒し、万民其澤に潤う」と、その由来が伝えられています。

現在の建物は、江戸時代の天明年間(1781〜89)に再建されたもので、大覚寺の本堂です。 本来は境内中央、勅使門の正面(現在の石舞台)の位置にありましたが、 大正14年(1925)大正天皇即位式の饗応殿が下賜され御影堂(心経前殿)として建築されたため、現在地に移築されました。

また、現在お祀りされている本尊は、大覚寺創建1100年を記念して 昭和50年(1975)に京都の大仏師松久朋琳と人間国宝松久宗琳の手で新しく造像されたものです。

近畿三十六不動尊第十三番の霊場として多くの人々に親しまれております。 


嵯峨菊の由来

嵯峨菊は旧嵯峨御所大覚寺境内の大沢池にある菊ヶ島に源を発し嵯峨帝がこの菊を親しくお挿しになった故事がある。

また、平安朝の歌人 紀友則は、「一本と思ひし菊を大沢の池の底にも誰か植ゑけん」と詠んでいる。

この嵯峨独特の野菊を、永年に亘り王朝の感覚を以って育成し、 一つの型に仕立て上げた、風情のある洗練された格調高い菊が嵯峨菊である。 この菊の仕立ては一鉢に三本立とし、長さは二メートルにする。

これは殿上から鑑賞されるに便利なよう高く育てる為である。

花は先端に三輪、中に五輪、下に七輪で七・五・三とし、葉は下を黄色に、中程は緑、上の方は淡緑になるようにする。 花弁は平弁で五十四弁、長さは約十センチが理想の嵯峨菊の型であり、淡色の花が色とりどりに妍を競い高い香をただよわせる。

旧嵯峨御所

大本山 大覚寺 


大沢池

庭湖ともいい 日本最初の庭池で最も古い庭園といわれています

池には天神島と菊ヶ島の二つの島と巨勢金岡(こせのかなおか)が配置したといわれ る庭湖石(ていこせき)があります この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤 となっています

遠くの山並みは東山連峰で正面の山は大文字山(如意ヶ岳)左手前は朝原山(遍照寺 山)です

この観月台からの中秋の名月は有名で

松尾芭蕉の

  名月や 池をめぐりて 夜もすがら

と句にも詠まれています。 

また、左手奥には多宝塔や藤原公任が詠んだ

  滝の音は 絶えて久しくなりぬれど

    名こそ流れて なほ聞こえけれ

の名古曽の滝の石組み跡があります。

また 平安時代から鎌倉時代にかけての石仏(野仏)がみられ名勝に指定されています


霊明殿(れいめいでん)

昭和十一年の二・二六事件の凶弾に倒れた斎藤実第三十一代内閣総理大臣は昭和恐慌の折 、国民の自力更正を願って昭和五年に東京都沼袋に自費で日仏寺を建立しました。その本 堂を、大覚寺第五十二世草繋全宜(くさなぎぜんぎ)門跡が昭和三十三年に当地に移築し 、霊明殿としたものです。正面には御本尊の阿弥陀如来を、右側には草繋門跡をお祀りし ています。平成十一年、東京・招福不動住職斑目(まだらめ)日光僧正の寄進により修復 され、移築当時の鮮やかな漆・丹塗がよみがえりました。


貴賓館(きひんかん)・秩父宮御殿(ちちぶのみやごてん)

大正十二年、当時東宮仮御所であった霞ヶ関離宮に建てられたもの。昭和四十六年 大覚 寺にご下賜されました。昭和四十八年移築復元され、現在は大覚寺の貴賓館です。竣工式 には秩父宮妃殿下のご来臨をいただき、ご見分を賜りました。


庭湖館(ていこかん)

江戸中期に建てられた大沢池畔にあった休憩所で、明治元年、現在地に移築されました。 上段の間には、江戸時代の名僧慈雲(じうん)尊者の大幅掛軸「六大無礙(むげ)ニシテ 常ニ瑜伽(ゆが)ナリ」が掛かっており「六大の間」と呼ばれています。


心経殿(勅封心経殿)

大正十四年(1925年)の建立で法隆寺の夢殿を模した八角形で高床式のコンクリート 造りの建物です。殿内には嵯峨天皇をはじめ後光巌、後花園、後奈良、正親町(おおぎま ち)、光格天皇の般若心経の御写経が納められ薬師如来立像が奉伺されています。この勅 封写経は天皇の命により封印をした経典として奉られ六十年に一度開封されています。

この建物は平成十年(1998年)に文化庁から「登録有形文化財」に指定されました。


五大堂

嵯峨天皇が天下泰平・五穀豊穣を祈念して建てられたもので、現在のお堂は江戸時代(天明年間)に再建されました。五大明王をお祀りしている心経の本山、大覚寺の本堂です。


御影堂(心経前殿)

嵯峨天皇・後宇多法皇・恒寂法親王・秘鍵大師(弘法大師)の尊像をお祀りしています。


正寝殿

十二室もある桃山時代の書院造りで、各室に狩野山楽、渡辺始興など日本を代表する画家たちの絵が飾られています。 上段の間は後宇多法皇が院政を執られたところで、僧侶であった法皇が御冠を傍らに置かれたところから 「御冠の間」と呼ばれています。


式台玄関

「江戸時代の建造で、玄関正面を飾る「松ニ山鳥図」は狩野永徳筆とされ、 大きな松に山鳥のつがいが描かれています。


大沢池(庭湖)

境内の東に位置し、嵯峨天皇の離宮・嵯峨院の庭池で、周囲1キロの日本最古の庭苑池です。 中国の「洞庭湖」を模して造られたところから庭湖とも呼ばれ、池には天神島、菊が島と庭湖石があり、 この二島一石の配置は華道嵯峨御流の基本形に通じています。 池の畔には茶室「望雲亭」、心経宝塔、石仏、名古曽の滝跡があり国指定の名勝地になっています。


宸殿

江戸時代(延宝年間)に後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。 前庭には古式正しく「左近の梅、右近の橘」が配され、 部屋の襖には狩野山楽筆の「牡丹図」「紅白梅図」をはじめ、桃山時代を代表する金碧画が飾られています。


勅封心經殿

嵯峨天皇をはじめ、六天皇の写経が奉祀されています。現在のお堂は、大正十四年に再建されたものです。


Imperial Place of Saga DAIKAKUJI

The Daikakuji temple was originally the detached palace of Emperor Saga. In 876 A.D.he designated that it was converted to a Shingon Buddhist Temple as an expression of his devotion to the Shingon teachings and to the founder of the Sect, St.K?b? Daishi. You will find many famous Fusuma paintings of the Momoyama period.

Shinden [宸殿]

About 400 years ago the Shinden of the Kyoto Palace was moved to the grounds of the Daikakuji temple in Saga. In front of the Shinden is a garden in the tradition of the Imperial Garden plan with the wild orange to the right and the plum tree to the left. The sliding door painting was drawn Sanraku Kano and has tree peonies and the red and white plum blossoms.

Shingyoden [心経殿]

About 1,200 years ago the country was plagued with a disastrous epidemic. At the suggestion of St.Kobo Daishi, the Emperor Saga began

copying in calligraphy the Hannya Shingyo Sutra as a form of prayer. It is said that the country was quickly delivered from the gripe of plague. The scriptur copied by the Emperor Saga is kept on the Shingyoden.

Shoshinden [正寝殿]

There are also designated as important cultural properties. The remote room on the east side is called Okanmurinoma. The Sh?hekiga in this room was painted by Sanraku Kano and Shiko Watanabe. The hawk painted in India ink attracts peoples' attention because of its uniqueness as a motif. A hare is painted on the wooden plants of the paper partition doors of the oblong room on the east side.

Osawa Pond (Teiko) [大沢池]

About 1,200 years ago, when the Emperor Saga established the Daikakuji temple as his detached palace, he had a garden pond made on the same lines as Lake Tungting in China. It was named O sawa pond, and is said to be the cradle of Ikebana Saga.

大覚寺 しおり より


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