海雲山 岩殿寺(がんでんじ) 岩殿観音 Gandenji Temple 坂東三十三観音霊場第2番札所 17.Dec.2013 天空仙人の神社仏閣めぐり
「岩殿寺 観音堂(大悲殿)」 |
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「山門」 | 「観音堂(大悲殿)」 |
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Sanmon | Kannondo |
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「納経所」 | 「利生堂」 |
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Nokyosho | Rishodo |
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「奥之院」 | 「観音堂・奥之院への石段」 |
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Okunoin | Ishidan |
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「幸福十一面観音像」 | 「爪掘地蔵尊」 |
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Kofuku Juichimen Kannon | Jizouson |
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「久我竜胆紋」 | 「笹竜胆紋」 |
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Kuga-rindou | Sasa-rindou |
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神奈川県逗子市久木5丁目7−11
5-7-11,Hisagi,Zushi-Shi,Kanagawa
第二番 海雲山 岩殿寺(岩殿観音) 宗派 曹洞宗 開基 徳道上人・行基菩薩 開創 養老4年(720年) 御本尊 十一面観世音菩薩 御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか 御詠歌 たちよりて 天の岩戸を おし開き 仏をたのむ 身こそたのしき
岩殿寺縁起 相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は 皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。 それゆえ、当山は徳上、行基両聖人の開基といわれている。 また、大悲殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、 寺を岩殿寺と号したといわれる。 正暦元年庚寅春三月十七日六十五代花山法皇が来山され、御自身導師となられて百僧法要御供養を営なまれた。 従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。 又、承安四年四月十八日七十七代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三ヶ所第二番の霊場とお定めになった。 なお、源頼朝が蛭ケ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、 夢に現われてお告げを蒙ることがしばしばあったという。 戦乱の折、敗色濃くなってからも、大悲の冥助を幾度も得て、立直れたというが、 なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人となって頼朝を房州洲崎に渡したちまち十一面観世音の妙容をあらわして、 三浦の方にとび去ったという。 頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。 文治三年正月二十三日には頼朝公の姫が参詣。 建久二年子の三月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久三年乙未の二月二十三日頼朝公幕下参詣。 建久三年巳卯の五月八日には後白河法皇四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。 承元三年五月五日には右大将実朝将軍参詣。 寛喜二年十一月十一日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家並び十二院の別当が日夜法要を修行され、 そのとき、鎌倉殿の命に依り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主三七日昼夜祈念したことが「東鑑」にも記されている。 しかし、その後また、ものかわり星うつりて七堂伽藍も荒廃し、 寺院の面目もなかったものを東照神君(徳川家康)の御仁恵により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜わり、 その徳沢に潤い、天正十九年十一月には県令 長谷川七衛門長綱が荘厳なる堂宇を再建し、 且つ申し請けて寺領五石の御朱印を賜わったという。 (以上「東鑑」「三浦群誌」「相模風土記」および土地旧家覚之書による) 境内 案内板より |
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