会津若松 阿弥陀寺(あいづ あみだじ)
     Aidu-wakamatsu Amidaji Temple 
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新選組 つながり

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会津若松 阿弥陀寺 会津若松 阿弥陀寺
「会津若松 阿弥陀寺」「会津若松 阿弥陀寺」
Aidu-wakamatsu AmidajiAidu-wakamatsu Amidaji
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会津若松 阿弥陀寺 会津若松 阿弥陀寺
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会津若松 阿弥陀寺 御三階 会津若松 阿弥陀寺 御三階
「御三階」「御三階」
GosangaiGosangai
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会津若松 阿弥陀寺 新撰組隊士 斉藤 一 墓 会津若松 阿弥陀寺 さくら
「新選組隊士

斉藤 一

藤田 五郎の墓」

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会津若松 阿弥陀寺(あいづ あみだじ)

Aiduwakamatsu Amidaji Temple

福島県会津若松市七日町4-20

4-20,Nanoka-machi,Aiduwakamatsu-shi,Fukushima


阿弥陀寺

阿弥陀寺は浄土宗に属し、慶長8年(1603)良然和尚の開山である。本堂は旧鶴ヶ城の御三階で藩公の密議また月見などされた所である。 玄関は同大書院玄関を移したものである。境内にかつて青銅1丈3尺の大仏があったが、太平洋戦争中供出し台座のみ残っている。

正面の拝霊殿には明治戊辰戦役会津藩殉難者の霊及び家老萱野権兵衛の木造を安置している。

萱野権兵衛(1500石)は戊辰の役諸処に転戦したが、奥羽諸藩処分の際会津藩抗戦の責任を自ら進んで負う処あって、 斬首の宣告を受け明治2年5月18日江戸保科邸にて割腹自刃した。享年42。

後、此堂に西南役戦死者佐川官兵衛外68名を合祀した。 官兵衛は戊辰役鬼佐川と呼ばれた勇将で、明治10年の西南役山地元治将軍の麾下にあって戦死し、其子直諒は日露の役遼陽に戦死した。

鐘楼は殉難者慰霊のため明治31年9月鋳造建立されたもので、老若男女挙って銅銭 小判 銅鏡 銀簪 等を提出し協力して成ったもので戊辰悲史を語るべき記念物である。


「戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺」

阿弥陀寺は慶長8年(1603)蒲生秀行の時代、下野国に生まれた良然が開山しました。

明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。 幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。

埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬されました。

春・秋の彼岸には手厚い供養会が行なわれています。

境内南にある「御三階」は、元は鶴ヶ城本丸内にあったもので、明治3年に移築され本堂として使用されました。 内部は4層で、秘密の会議が行なわれたと言われます。

阿弥陀寺の入り口に写真のように大仏様がありましたが、太平洋戦争で供出され、今では台座が残るだけです。


新選組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓


斉藤一は、1844年(弘化元年)、御家人の父、山口祐介・母マスとの間に生まれた。 初名を山口一、のち斉藤一に改めた。

1863年(文久三年)壬生浪士組のちの新選組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で、剣術師範も務めた。池田屋事件にも参戦。 その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時伊東に同調して離脱、しかし局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、 新選組に復帰し、山口二郎と改名。

鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、会津戊辰戦争を戦った。 しかし西軍が城下に迫った時、「会津侯(松平容保)あっての新選組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と残り仙台へ向かった土方と別れた。

会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉。明治三年斗南に移る際に藤田五郎と改名。 その後は上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚。 警視庁においては西南戦争に出陣するなど活躍。その後東京教育博物館等へ奉職し、1915年(大正4年)七二歳で逝去。 後半生を会津人として生きた本人の希望によりここ阿弥陀寺に眠っている。


鶴ヶ城の遺構

御三階(ごさんがい)

江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城本丸にありましたが、明治3年にこの地に移されました。 外観は3階ですが、内部は4層になっており、2階と3階の間に天井の低い部屋があります。 3階に上がる梯子は用のない者が上がれないように、上から引き上げる仕組みになっており、 当時は密議所に使用されていたと思われます。 また、本丸東北の正方形の石垣の上に建っていたところから、物見や展望台の役目を果していました。

戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が焼失したために、長く本堂として使用されてきました。 玄関の唐破風は城内本丸御殿の玄関の一部を配したものです。 鶴ヶ城の遺構として現在残る貴重な建物です。

境内 説明板より


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