京都 化野(あだしの)念仏寺      Adashino Nenbutsuji Temple    天空仙人の神社仏閣めぐり

化野(あだしの)念仏寺 Official Page

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化野念仏寺 西院の河原 写真 化野念仏寺 西院の河原 写真
「西院の河原」「西院の河原」
Saiin no KawaraSaiin no Kawara
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化野念仏寺 写真 化野念仏寺 写真
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化野念仏寺 写真 化野念仏寺 水子地蔵尊 写真
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化野念仏寺 竹林 写真 化野念仏寺 六面六体地蔵さま 写真
「竹林」「六面六体地蔵さま」
ChikurinRokumen-Rokutai Jizou
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化野(あだしの)念仏寺

Adashino Nenbutsuji Temple

京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17

17,Saga-Toriimoto-Adashino-Cho,Ukyo-Ku,Kyoto


化野念仏寺

華西山東漸院と号する浄土宗の寺である。化野は古来より鳥辺野、蓮台野とともに墓地と して知られ、和歌では「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞に使われている。 寺伝によれば当寺は空海が弘仁年間(810〜824)に小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山 寄りを胎蔵界と見立てて千体の石仏を埋め、中間を流れる川(曼荼羅川)の河原に五智如 来の石仏を立て、一宇を建立し、五智山如来寺と称したのが始まりといわれている。当初 は真言宗であったが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念 仏寺と呼ばれるようになった。

正徳2年(1712)黒田如水の外孫の寂道が再建したといわれている本堂には本尊の阿 弥陀如来座像を安置し、境内には西院の河原を現出した多数の石塔石仏が立ち並んでいる。 毎年8月23、24日の両日には、これらの石塔石仏に灯を供える千灯供養が行われ、多 くの参詣者で賑わう。


寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約千百年前、弘法大師が、五智山如来 寺を開創され、野ざらしとなっていた遺骸を埋葬したと伝えられる。その後、法然上人の 常念仏道場となり、現在、華西山東漸寺念仏寺と称し浄土宗に属する。 本尊阿弥陀仏座像は湛慶の作、参道の釈迦・彌陀二尊の石仏と共に鎌倉彫刻の秀作とされ ている。現在の本堂は・庫裡は、正徳2年(1712)11月、岡山より来た寂道和尚に よって中興されたものである。

境内にまつる八千体を数える石仏・石塔は往古あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。 何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだし野の山野に散乱埋没していた石仏を明治中 期、地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀している。 この無縁仏の霊にローソクをお供えする千灯供養は、地蔵盆の夕刻よりおこなわれ、光と 闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり、多くの参詣がある。

石仏や石塔が、肩をよせ合う姿は空也上人の地蔵和讃に

これはこの世の事ならず死出の山路のすそのなるさいの河原の物語・・・

もどり児が河原の石をとりあつめもれにて廻向の塔をつむ

一重つんでは父の為二重つんでは母の為・・・

とあるように、嬰児が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を想わせる事から西院の河原 という。

あだし野は化野と記す。「あだし」とは、はかない、むなしいとの意で、又「化」の字は 「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いな どを意図している。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬とな り人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。

兼好法師の徒然草に

あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の烟立ちさらでのみ住果つる習ならば如何に物の哀もな からん世は定めなきこそいみじけれ

としるされ、

式子内親王は、

暮るる間も

待つべき世かはあだし野の

松風の露に嵐たつなり

と歌い、

西行法師も

誰とても

留るべきかはあだし野の

草の葉毎にすがる白露

と人の命のはかなさを詠んでいる。

竹林と多聞塀を背景に茅屋根の小さなお堂は、この世の光はもとより母親の顔すら見るこ ともなく露と消えた「みず子」の霊を供養するみず子地蔵尊で、毎月お地蔵様の縁日には、 本堂にみず子地蔵尊画像をおまつりする。


化野念仏寺

華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺で、境内には付近から出土 した多数の石塔や石仏が立ち並んでいる。

化野は古くから鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに葬地として知られ、

誰とでも とまるべきかは あだし野の

                草の葉ごとに すがる白露

という西行の歌にもあるように、「化野の露」は、人生の無常の象徴として和歌などで広 く使われている。

寺伝によれば、弘仁(こうにん)年間(810〜824)に空海上人がこの地に葬られた 人々を追善するため、小倉山(おぐらやま)寄りを金剛界(こんごうかい)、曼荼羅山( まんだらやま)寄りを胎蔵界(たいぞうかい)と見立てて千体の石仏を埋め、中間を流れ る曼荼羅川の河原に五智如来(ごちにょらい)の石仏を立て、一宇を建立して五智山如来 寺と称したのが始まりといわれている。当初は真言宗であったが、鎌倉時代の初期に法然 (ほうねん)上人の常念仏道場となり浄土宗に改められ、念仏寺と呼ばれるようになった。

正徳(しょうとく)二年(1712)に寂道(じゃくどう)上人が再建したといわれてい る本堂には、本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像が安置されている。

毎年8月23、24日に行われている「千灯供養(せんとうくよう)」では、八千体にも 及ぶ無縁の石仏等に灯が供えられ、多くの参詣者でにぎわう。

京都市 案内板より


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